一月ほど前、ピション/ピグマリオンの新譜「モツレク」がリリースされるという予定に遭遇し、Presto Musicで各楽章を少しずつつまみ食い試聴できて、とても丁寧に音楽を作っていると感じた。そこで発売日を待って、9624ファイルをダウンロードした。
逝ってしまったモーツァルトの音楽 ラファエル・ピション
「どんな芸術も死との踊りなくしてはあり得ない」
カート・ヴォネガット、「スローターハウス5」より
契約の箱[十戒の石箱]
偉大な作品を分類して、カタログにしたくなるのが世の常だ。ところがどっこい、モーツァルトの『レクイエム』の独自性はその多様性の中にある。1791年、彼は比類ない音楽的才能に恵まれながら、ウィーン市からもパトロンからも見放され、借金の恐怖に怯え、貧しさの中で生き延びようとしていた。フリーメーソンに入り、真の啓蒙主義者に生まれ変わって以来、モーツァルトは宗教的な大作をほとんど書いていない。最後の作品となったミサ曲ハ短調K427(1783年)は、コンスタンツェとの結婚を記念して作曲されたが、未完に終わっている。この作品でモーツァルトは、バッハとヘンデルを発見して学んだことを取り入れ、息をのむような壮大な表現力を持つ対位法的な新しい語法を定義した。モーツァルトは晩年も数多くの宗教曲の写譜を続けているが、それは彼がこの対位法という遺産を大規模な新作の中で発展させようと考えていた可能性を示唆している。『レクイエム』の委嘱は、まさに、適宜を得た時に届けられたのかもしれない。
この『レクイエム』は、ヨハン・ヨーゼフ・フックス(1660-1741)やハインリヒ・イグナーツ・フランツ・ビーバー(1611-1704)に始まり、ミヒャエル・ハイドン(1737-1806)に引き継がれた純ドイツ的でカトリック的な歴史の流れを引く繋がりの中に位置するもので、モーツァルトはハイドンの美しいハ短調のレクイエム(1771年)を何度か聴いたことがあり、それは多くの点で後に彼が作曲する『レクイエム』に似たところがある。こうして『レクイエム』は、その言語と規範を通して、伝統の中の最高位に到達した。この作品は30年近く作曲を続けて来た作曲家の後世への遺産と記憶を汲む遺作なのだ!さらに、この作品はモーツァルトが後年オペラで取り組んだ長い人間探求の集大成であり、オーケストラを登場人物として加わる役に引き上げ、しばしば、人間の魂の言葉にならないことや陰の部分を表現するために、最も複雑な登場人物にさえした。ニ短調の調性やセクエンツィアのページを、『ドン・ジョヴァンニ』の騎士団長の身の凍るような登場、あるいは『魔笛』の夜の女王の暗黒と関連付けないでいられようか?
しかし、『レクイエム』はモーツァルトの歴史と作品の中でも特別な位置を占めるものでもある。未完成ではあるが、普遍的な言語の最も力強い音楽的表現のひとつだ。古来の旋律を用いながら未来を見通し、神聖世界と世俗世界とを綱渡り的な行動で融合させて新たな道を切り開き、当惑させるほどの真摯さで典礼文を奉じ、教義と人間のいずれかを選ぶことなどない。従って、この曲は、過去を呼び起こし、未来を描く音楽作品であると同時に、人間の生に対するモーツァルト自身の展望と死との間の、まさに「契約の箱」でもあると思われる。作曲者は『レクイエム』の受嘱後、作品の完成を最優先することはなかったが、自分の死が迫っていることを確信したことが、咄嗟に彼をその作業に立ち返らせたようだ。それは、命が尽きる直感と重なって、未完成となる恐れを感じる時だ・・・。
生の謳歌
作品の入口に来ると、フリーメーソンを象徴する音楽の中心的楽器、バセットホルンとファゴットという明らかに象徴的な選択を見る。それらの同胞愛のメッセージが開始小節の性格を決定づけており、モーツァルトが自らフリーメーソンにすべてを委ねることにして以来、彼は自分がそのメッセージの守護者と考えていた。彼の『レクイエム』は何よりも、神への忠誠以前に人間性への忠誠を表現したものとなるだろう。慎ましく、柔和な太陽が人への優しさでほのかに色付く。ここで、手法は大きく異なるが、モーツァルトはバッハと合流し、慰めの光の可能性を我々に感じさせる。モーツァルトの最も感動的な手紙のひとつに、死を無邪気な素直さで、「人間の最良の友」と形容したものがある。この「友愛的」な定義は、『レクイエム』を理解する上で大いに役立ちそうだ。
バッハがその天賦の才によって、個人と集団の言葉の補完性を受難曲やカンタータの中で操ったのとまさに同じように、モーツァルトは共同体を仲介にして、我々に個人的に訴えかけているかのようだ。そこで合唱が、離別の物語とも言えるが、死を前にした肉体的な本当の恐怖の物語の中で主役となる。セクエンツィアの大きな震えは、神の怒りに対する恐怖よりも、直接触れる身体的な恐怖感を伝え、それはほとんど生物学的な恐れだ。
楽章は全体として、その多様性と相補性の中で、「死は、それを間近で見つめれば、生命の目的地である」という人間像を描いているかのようだ、とモーツァルトが我々に語る。この作品は、陰鬱で出口のないラメントとは逆に、生ける者たちを舞台に上げ、生の謳歌を通した人間存在に対する彼の大讃歌となっている!
2019年の出会いと公演(エクス=アン=プロヴァンス音楽祭のアルシェヴェシュ劇場での『レクイエム』上演)がこの作品に対する我々の経験をさらなる混乱と解体に導いた。その創作時から疑心暗鬼だらけという、例を見ない危険なプロジェクトだったが、最終的には現代舞台の最も偉大な詩人のひとりロメオ・カステルッチの深層にまで及ぶ解釈のおかげで、この永遠の作品が持つ「果てしなさ」を力の限りの大きな叫び声とした。この場合、ロメオ・カステルッチの劇は『レクイエム』と深い血の繋がりがあるように、私は感じる。両者とも、光、液体、象徴、対立、引力と斥力、そして人間と戯れているのだ。合唱が一音ずつ飽くこともなく踊り続ける光景を通して、我々は今や『レクイエム』を祭典で流す汗の中まで体験し、そこから変貌して戻って来たのだ。
メメント – 記憶
伝統と遺産(音楽構造、対位法の作例、あるいはさらに単線律聖歌の影響など)を掻き集めて、モーツァルトは記憶されるべき枠組みの中に自らを刻み込む。となると、彼自身の記憶と、この遺言的作品の個人的な道程という問題が残る。とりわけ私にとって驚きだった例は、キリエK.90に遭遇した時だった – この録音では、Miserere mei(詩篇51[50])の冒頭句に歌詞を置き換えて、『レクイエム』の開始楽章の直前に置いた。その短い作品は恐らく1771年に彼が15歳の時 – マルティーニ神父に対位法を学んだ2年後 – ザルツブルクで書かれたもので、モーツァルトはパレストリーナ的な様式の記憶を引き出して、対位法をドリア旋法で展開しようとしていた。この短い譜面が、天才モーツァルトに相応しく、戸惑うほどの自然さで、毅然として進行すると、このポリフォニー作品の最初の小節はティーンエイジャーの若者が書いたもので、それもニ短調で、20年後に彼の偉大な「死者のためのミサ曲」が扉を開く時の極めて特徴的な輪郭と雰囲気を持っていることに気づくと、計り知れない衝撃を受ける。この発見は、私が『レクイエム』に取り組むためには避けられない選択を即座に促した。作品には多くの可能性があり、どのようなプログラムがそれを取り巻き、完成させるのかという構成、あるいはスコアをどの「版」にするかなどだ。
未完の傑作を作曲者の死後に完成させることが論争や批判を招くことは避けられない。この作品のスコアについて、20年以上の経験を重ねたことで、ジュスマイヤーが完成させた『レクイエム』がモーツァルトが仕上げようとしていたものと非常に近いと私に確信させた。音楽学的な疑問に深入りし過ぎることを避ければ、ジュスマイヤーはOffertorium以降の楽章について、数多くの口頭での指示を受けたり、今は消失したスケッチもあっただろうというのは、私には明確なことと思われる。ジュスマイヤーの他の作曲についての詳細な研究では、このような感情表現力のある作曲をする想像力が彼には見当たらないことが示されている。Agnus Deiを聴いて見ると良い!この楽章のエッセンスが彼に伝えられていたことは、私は明白だと感じる。CommunioでIntroitusの音楽に回帰するところは、まばゆい変ロ長調の調性で輝いていることを指摘しておこう。その選択は、しばしば弱点として批判されたのとは裏腹に、ミヒャエル・ハイドンの『レクイエム』でも尊重された伝統に則ったもので、そこではほぼ同一の手法を用い、作品の循環性という特徴を美しさと強さとともに採用している。
しかし、注意すべき例外もいくつか存在する。そのひとつがSanctusで、稀有な気品を備えた導入部は間違いなくオリジナル部分だが、その後は、Hosannaでジュスマイヤーの展開と豊かさの欠如によるいささか貧弱なフーガに道を譲る。さらにBenedictusでも、最初の部分はモーツァルトらしい香りが漂う感じだが、その後は苦し紛れの展開で方向を見失っている。天然というモーツァルトの天才にこれほど特徴的な感覚は、明らかにここでのジュスマイヤーにはないようだ。この取り返しのつかない欠如は潜在的なもので、何よりもオーケストラの生命とその繊細なディテールの中で見られるものだ。生命、脈動、そして色彩というこのオーケストラの特性が、『レクイエム』の最初のいくつかの楽章を特別な魔法の下に始動させるが、次第に衰退していくようだ。そうした厳然たる事実があるにもかかわらず、ジュスマイヤー版は2世紀以上もの間、その途方もない資質とその不完全さとをあわせ持って、多くの男女に記憶されてきたので、最も普遍的なものになっていると私は思う。その可塑性と色彩が、ささやき声であれ叫び声であれ、消えない刻印の証しであり、それを『レクイエム』が私たち全員に委ねる。選択はなされた。心の選択だ。
私は〔作曲の〕完成という不可能な探究よりも、この記憶の作用から、時をたどるこの旅から、一筋の糸を引き寄せたいと考えた。こうして我々の旅は単線律聖歌で始まるのだが、それは太古の昔という時間表現であり、また子供の声の佇まいを通した生の時間表現でもある。初めのIn paradisumは、通常カトリックの礼拝では埋葬聖務Officium Defunctorumを締め括るものだが、最後までそれを歌えないというのは、我々がまず生を祝う集合的経験を求めているからだ。そのため、この歌は『レクイエム』を性格付ける重要な合唱(Miserere mei K90)に引き継がれるのだが、そこにソロの4重唱が思いがけず割り込んで、短いカノンAch, zu kurz ist unsers Lebens Lauf K228/515b(ああ、我らの人生のなんと短いことよ!)が歌われる。『レクイエム』の作品自体の中においても、モーツァルトの生涯に輝きを添えた貴重な他の作品の記憶との対話が、鏡の作用を通して時として混乱を見せつつ作り出される。以下の曲が並ぶ。Ne pulvis et cinis K Anh.122の驚くべき展望、Thamos K345への偶発的な音楽からの引用(この時モーツァルトはわずか17歳!)、Solfeggio K393/2の小品を発端にしてハ短調ミサ曲K427のKyrieにおける主題の要素となるはずのスケッチ(もしくは習作)、器楽曲の傑作のひとつグラン・パルティータK361のアダージォの編曲(編者不詳)をここでは予想外の天使的なモテットの形で聴く(Quis te comprehendat K Anh.110)。そして最後にこの作品の震央、‘Lacrimosa’に続く未完の空白部、おそらくSequentiaの締めとなるよう意図されていたであろうアーメン・フーガのスケッチ(わずか数小節)を体験することだ。‘Domine Jesu Christe’の生命力で始まるOffertoriumが誕生するのは、この音楽のブラック・ホールからだ。
時を生き、膨大なエネルギーを発散した後で、この旅の終わりに、我々は最後に始まりのIn paradisumに回帰することになる。旅がこれで終わりに至ったということなら、その歌声は人類全体の表現でもあることを最後のこだまが我々に思い起こさせてくれる。
「死のことを深く考えてみると、それは我々存在の真の目的で、私はここ数年間、人類の最良にして最高のこの友人と非常に親しい関係を作ってきたので、そのイメージはもはや私には恐れではなく、本当に癒やされ、慰められるものです!
そして私は神が私に機会を用意してくださり(お分かりですよね)、それが私たちの真の祝福への鍵であることを悟り、この幸運をお与えくださったことを神に感謝します。私は夜ベッドに向かう時、もしかすると明日私は(どんなに若かろうが)存在していないかもしれないと考えないことはありません。それでも、私を知る人たちの中で、私の態度が気難しいとか、悲観してるとか言える人は誰もいません。
私は毎日わが創造主にこの祝福に感謝し、それが私の仲間の人たちすべての上にもあることを心から祈ります。」
1787年4月4日、病気の父に宛てたモーツァルトの最後の手紙