Wednesday, October 26, 2016

iMacをSSD化作業上の注意 - Installing SSD in iMac

いよいよ我がiMac (Early 2009)のドライブをSSDに換装する。ネット上に写真付きの手引きが色々アップされているので特に不安はなかったが、移行前にやっておくべき状況認識がある。内蔵HDD640Gは空き領域が100Gを切っており、今回使用することにしたIntel 535は240Gしかない。そこでデータ内容をざっと俯瞰してみると、写真類200G、音楽100G、ドキュメントなど80Gが溜め込まれていた。これらは外部のアーカイブ用ドライブに移転させ、iTuneや写真アプリの設定でアクセスさせ、内蔵ディスクへの保存は避けることにした。結局、システム、アプリ、メールなどに絞り込んだ容量は130Gほどにスリム化できた。


Parts and tools for SSD installation

次に新しいドライブへの転送についてはいろいろな方法が選択できるが、僕は外付け用のドライブケースを買って(安い!)まずSSDをそこに組み込んで、Option+スタートする手順にした。今回はそこからRecoveryを選び、TimeMachineからのバックアップへと進んだが、システムのクリーン・インストールだけを選ぶこともできる。この部分は数時間ののろのろ作業だった。

さて、解体作業だが、先達の手引きに従って概ね順調に「粛々と」進むだろうと思うが、いくつか気付いた注意点だけ列挙しておこう。まずT8トルクスドライバーが必要と複数の手引きを目にしたが、実際にはT6も必要になる。そしてHDDの取り外し方法。これは一番厄介だ。HDDを固定しているネジは4箇所だが、下側左のネジ山にはアクセスすら出来ない。しかしこれはそのままにしておけば良い。下側右のネジも普通のドライバーでは垂直に当てることが出来ないので、頭だけ交換出来るタイプのトルクスで取っ手がL型にフックする短いドライバーが必要だ。このネジは取り外す。残る上側2個のネジについてはネジ山を覆う黒いプラスチックバーが付いているが、コネクター側の端を持ち上げると回転して取り外せる。その後で2個のネジを外す。3つのネジを外せばHDDそのものを上方向にずらして抜くことが出来る。コネクターそのものは、僕の場合、プラスチックの壁が立っていて、固定位置では抜くことができず、ドライブをずらしてから外した。




換装結果はかなり機敏さを取り戻した感じで、起動時間はHDDでリンゴマークからプログレスバーを経てログイン画面まで40秒、壁紙表示まで2分10秒ほどかかっていたのが、SSDではそれぞれ25秒、49秒と一気に半減だった。
摘出したHDDは外付けのケースに入れて起動オプションのひとつとして残しつつ、画像ファイルの保存場所として継続使用する。そのためにSalcarのケースを購入した。2.5"用ほど安くはないが、装着は簡単でなかなか良く出来ていると思った。
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Replacing the 640GB HDD inside my iMac (Early 2009) with a 240GB Intel 535 SSD drive was not so stressful because several practical procedures were posted in the web for reference, but some findings that were not reported in detail: T6 driver was also needed in addition to T8, and removing HDD was a bit mysterious because the bottom/left pin was not accessible but it can be left untouched as I could slid out the drive toward the opposite direction after removing remaining 3 screws pins. My main anxiety was how I could clean up or rearrange the whole data reaching 600GB. Actually in my case, photos had 200GB, music 100GB, and other miscellaneous documents 80GB or so, that could be all redistributed to external drives yet remained accessible from the internal system. The result: the wall paper showed up in 49 seconds compared to 130 secs previously!

Wednesday, October 19, 2016

ガーディナーのカンタータ解説 - Cantata No.78 Liner Notes by Gardiner

来シーズンの演奏曲目の楽譜が届いた。78番は既に練習始めているので、作品の背景を少し勉強しておこうと手元のバッハ巡礼カンタータ全集CDの解説を読んでみることにした。前にも書いたと思うが、ガーディナーの文章はいささか衒学的で読みづらいので、聴きながら読んだりは殆どしていない。訳してみるとかなり気合いの入ったライナーノーツだ。


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三位一体の後の14回目の日曜日のカンタータの中では、疑う余地なく、選択すべきはコラール・カンタータBWV 78 “Jesu, der du meine Seele”で、桁外れたレベルのインスピレーションがすべての楽章を通じて維持されている。
BWV78はト短調の巨大な合唱の嘆きで始まり、その音楽的帯状装飾はスケール、強烈さ、そして表現力において現存するふたつの受難曲の前奏曲と肩を並べるものだ。この曲は半音階に下降するオスティナートの上にパッサカリアとして仕上げられている。パッサカリアのような舞曲形式をして、 — それは音楽の中で英雄的で悲劇的な響きを持つものであると、偉大な主唱者の名前を2人だけ挙げればPurcell(ディドの嘆き)とRameauの音楽によって我々は知っているが、多分バッハは知らなかったろう — それを神学的/修辞的な目的に向けるというのはどこまでバッハに特徴的なのか。
我々は今年すでに二度、それに遭遇している。復活祭のための初期カンタータ”Christ lag in Todesbanden” BWV42 週遅れの日曜日の”WeinenKlagenSorgenZagen” BWV12だ。ここでは、コラールが現れるたびにバスが歌う半音階的固執低音が一層強調される。オリジナルでありながら控え目な何十もの特徴の中の1つは、固執低音が1641年のJohann Ristの賛美歌に伝統的に繋がる定旋律に対して釣り合いを取る錘として作用するその手法で、あらゆる種類の対位法の線をそのまわりやその中に編み込んでいる。イエスが「悪魔の暗い洞穴から、そして弾圧的な苦悶から」キリスト教徒の魂を「最も強引に奪還した」方法を述べた部分に、力強く力点が置かれる。
3声部は定旋律に敬意ある伴奏をするものと単純に想定するところで、バッハは彼らに異質な重責を与える:パッサカリアとコラールの仲を取り持ち、説教の伝道者がしそうな方法でコラール・テキストを準備し、解釈する。これこそが聖書釈義の力であり、人はバッハがまたしてもその音楽的雄弁術の聡明さによって、伝道者の威光を(不注意に?)横取りしていたのではないかと疑ってみたくなる。
いずれにしても、それはあなたがあらゆる小節のあらゆる拍にしがみついて、音符の展開に応じて楽譜から音楽の価値の残らずすべてを掘り出そうと、ほとんど必死の集中した試みに取り組む、そんないくつかのカンタータの開始楽章の1つなのだ。

この高貴な冒頭のコーラスと、甘美にしてほとんど不遜に軽薄なソプラノとアルトのデュエットとの間の、ここまで唐突なコントラストを凌ぐものを人はどんな途方もない夢の中でも想定することができないだろう。そのオブリガート・チェロの常動曲(moto perpetuo)には、Purcellの反響 (歌劇《妖精の女王》から‘Hark the echoing air’)Rossiniの前兆がある。「あなたの恵み深き笑顔で私たちを喜ばせて」と懇願するバッハの魔法に、あなたは同意せざるを得ず、肯くか −あるいは軽く足拍子− している。彼もこれ以上に微笑を誘引する音楽は書いていない!しかし執行猶予は束の間だ。

テノールの叙唱では、pianoで開始と異例の表記があり、我々は病んだ罪の概念に引き戻される。声の線はぎこちなく、表現は苦悩に満ちた戒めの言葉使いだ:ほとんど、この半年前に上演したヨハネ受難曲でのペテロの後悔の展開版である。その償いはキリストが血を流すことに依り、フルート・オブリガートのアリア(No.4)の中で、テノールは「地獄の軍勢が私を戦いへと呼んでも、イエスが私の側に立っておられるなら、私を勇気づけ、勝利できます」と信念の宣言を行う。地獄とのこの交戦を喚起するには、我々はトランペットまたは少なくとも完全な弦合奏団を期待するところだろうが、しかしここでのバッハは微妙なモードを選ぶ。彼の関心はむしろ人の罪を「癒やす」フルートの優美な装飾表現能力にあり、そこで親しみやすい踊るような曲を用いることによって、魂を清め、「心を再び軽快に感じさせる」ことができる描写方法を取ることだった。

最終のコラールの前に置かれた終盤のふたつの楽章はバスのためのものだ。まず、十字架の苦悩に関する瞑想として始まるaccompagnatoがあり、それが発展して速度を変え、キリストが救いのために犠牲となった帰結として彼の意志への服従に関しての思いとなる。
ヴィヴァーチェのところ(「酷い裁判官が断罪された人に呪いを浴びせる時」)では、バスはcon adoreで — 情熱をもって — 歌うように指示されている。この曲は大文字P[=受難曲]と小文字p[=情熱]の両方のPが付く「パッションの音楽」で、その技法・心情・表現においてヨハネ受難曲と、そしてカンタータ第159番での‘Es ist vollbracht’という独特の用語とも驚くほどの類似を示している。整頓された音楽学の尊重やテキスト本位という今日的な環境下でのバッハ演奏では、パッションは稀有な貴重品となっているが、それがないと、彼の匠としてのすべての技術、構造・和声・対位法に対する精通、そしてそれらをこれほどの激しさ、意味、そして正にパッションで満たすバッハの奇跡がガタついてしまう。

ハ短調の最後のアリアは、オーボエ協奏曲から引き出された楽章のような感じがするが、声部とオーボエを完全に一体化することに成功し、キリストのことばによって不安な良心に望みが生まれることを賛美する。トゥッティとソロが交互に入れ替わり、その不規則な小節構造(1-2½-1-2½-1)の周期パターンが積み上がってみれば決まり事の8になるというのが面白い!

カンタータへの結論としてのRistのコラール聖歌の一途な和声法には、バッハの技巧・心象・知的把握力の独特の組合せがあり、バッハは最初の楽章でそれを駆使していたのだと我々は倍増しで気付かされる。

© John Eliot Gardiner 2006
From a journal written in the course of the Bach Cantaga Pilgrimage