Wednesday, October 19, 2016

ガーディナーのカンタータ解説 - Cantata No.78 Liner Notes by Gardiner

来シーズンの演奏曲目の楽譜が届いた。78番は既に練習始めているので、作品の背景を少し勉強しておこうと手元のバッハ巡礼カンタータ全集CDの解説を読んでみることにした。前にも書いたと思うが、ガーディナーの文章はいささか衒学的で読みづらいので、聴きながら読んだりは殆どしていない。訳してみるとかなり気合いの入ったライナーノーツだ。


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三位一体の後の14回目の日曜日のカンタータの中では、疑う余地なく、選択すべきはコラール・カンタータBWV 78 “Jesu, der du meine Seele”で、桁外れたレベルのインスピレーションがすべての楽章を通じて維持されている。
BWV78はト短調の巨大な合唱の嘆きで始まり、その音楽的帯状装飾はスケール、強烈さ、そして表現力において現存するふたつの受難曲の前奏曲と肩を並べるものだ。この曲は半音階に下降するオスティナートの上にパッサカリアとして仕上げられている。パッサカリアのような舞曲形式をして、 — それは音楽の中で英雄的で悲劇的な響きを持つものであると、偉大な主唱者の名前を2人だけ挙げればPurcell(ディドの嘆き)とRameauの音楽によって我々は知っているが、多分バッハは知らなかったろう — それを神学的/修辞的な目的に向けるというのはどこまでバッハに特徴的なのか。
我々は今年すでに二度、それに遭遇している。復活祭のための初期カンタータ”Christ lag in Todesbanden” BWV42 週遅れの日曜日の”WeinenKlagenSorgenZagen” BWV12だ。ここでは、コラールが現れるたびにバスが歌う半音階的固執低音が一層強調される。オリジナルでありながら控え目な何十もの特徴の中の1つは、固執低音が1641年のJohann Ristの賛美歌に伝統的に繋がる定旋律に対して釣り合いを取る錘として作用するその手法で、あらゆる種類の対位法の線をそのまわりやその中に編み込んでいる。イエスが「悪魔の暗い洞穴から、そして弾圧的な苦悶から」キリスト教徒の魂を「最も強引に奪還した」方法を述べた部分に、力強く力点が置かれる。
3声部は定旋律に敬意ある伴奏をするものと単純に想定するところで、バッハは彼らに異質な重責を与える:パッサカリアとコラールの仲を取り持ち、説教の伝道者がしそうな方法でコラール・テキストを準備し、解釈する。これこそが聖書釈義の力であり、人はバッハがまたしてもその音楽的雄弁術の聡明さによって、伝道者の威光を(不注意に?)横取りしていたのではないかと疑ってみたくなる。
いずれにしても、それはあなたがあらゆる小節のあらゆる拍にしがみついて、音符の展開に応じて楽譜から音楽の価値の残らずすべてを掘り出そうと、ほとんど必死の集中した試みに取り組む、そんないくつかのカンタータの開始楽章の1つなのだ。

この高貴な冒頭のコーラスと、甘美にしてほとんど不遜に軽薄なソプラノとアルトのデュエットとの間の、ここまで唐突なコントラストを凌ぐものを人はどんな途方もない夢の中でも想定することができないだろう。そのオブリガート・チェロの常動曲(moto perpetuo)には、Purcellの反響 (歌劇《妖精の女王》から‘Hark the echoing air’)Rossiniの前兆がある。「あなたの恵み深き笑顔で私たちを喜ばせて」と懇願するバッハの魔法に、あなたは同意せざるを得ず、肯くか −あるいは軽く足拍子− している。彼もこれ以上に微笑を誘引する音楽は書いていない!しかし執行猶予は束の間だ。

テノールの叙唱では、pianoで開始と異例の表記があり、我々は病んだ罪の概念に引き戻される。声の線はぎこちなく、表現は苦悩に満ちた戒めの言葉使いだ:ほとんど、この半年前に上演したヨハネ受難曲でのペテロの後悔の展開版である。その償いはキリストが血を流すことに依り、フルート・オブリガートのアリア(No.4)の中で、テノールは「地獄の軍勢が私を戦いへと呼んでも、イエスが私の側に立っておられるなら、私を勇気づけ、勝利できます」と信念の宣言を行う。地獄とのこの交戦を喚起するには、我々はトランペットまたは少なくとも完全な弦合奏団を期待するところだろうが、しかしここでのバッハは微妙なモードを選ぶ。彼の関心はむしろ人の罪を「癒やす」フルートの優美な装飾表現能力にあり、そこで親しみやすい踊るような曲を用いることによって、魂を清め、「心を再び軽快に感じさせる」ことができる描写方法を取ることだった。

最終のコラールの前に置かれた終盤のふたつの楽章はバスのためのものだ。まず、十字架の苦悩に関する瞑想として始まるaccompagnatoがあり、それが発展して速度を変え、キリストが救いのために犠牲となった帰結として彼の意志への服従に関しての思いとなる。
ヴィヴァーチェのところ(「酷い裁判官が断罪された人に呪いを浴びせる時」)では、バスはcon adoreで — 情熱をもって — 歌うように指示されている。この曲は大文字P[=受難曲]と小文字p[=情熱]の両方のPが付く「パッションの音楽」で、その技法・心情・表現においてヨハネ受難曲と、そしてカンタータ第159番での‘Es ist vollbracht’という独特の用語とも驚くほどの類似を示している。整頓された音楽学の尊重やテキスト本位という今日的な環境下でのバッハ演奏では、パッションは稀有な貴重品となっているが、それがないと、彼の匠としてのすべての技術、構造・和声・対位法に対する精通、そしてそれらをこれほどの激しさ、意味、そして正にパッションで満たすバッハの奇跡がガタついてしまう。

ハ短調の最後のアリアは、オーボエ協奏曲から引き出された楽章のような感じがするが、声部とオーボエを完全に一体化することに成功し、キリストのことばによって不安な良心に望みが生まれることを賛美する。トゥッティとソロが交互に入れ替わり、その不規則な小節構造(1-2½-1-2½-1)の周期パターンが積み上がってみれば決まり事の8になるというのが面白い!

カンタータへの結論としてのRistのコラール聖歌の一途な和声法には、バッハの技巧・心象・知的把握力の独特の組合せがあり、バッハは最初の楽章でそれを駆使していたのだと我々は倍増しで気付かされる。

© John Eliot Gardiner 2006
From a journal written in the course of the Bach Cantaga Pilgrimage



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