Sunday, April 19, 2026

A Choice Collection of Lessons for Harpsichord or Spinnet - ヘンリー・パーセルの鍵盤練習曲選集

 「練習曲選集」と謳って、パーセルの組曲が並んでいるCDを目にして、取り寄せてみた。奏者はイタリアのアンジェリカ・セルモ。この選集に取り組んだ意欲のほどが解説から読み取れるので、訳出しておいた。


ヘンリー・パーセル – ハープシコードあるいはスピネットのための練習曲選集

様式

その音楽によって人々を魅了する能力から、『ブリタニアのオルフェオ』とも言われたヘンリー・パーセルは、バロック期のイギリスで最も有名な作曲家だ。彼は主に劇的作品の評価が高いが、『ハープシコードあるいはスピネットのための練習曲選集』のような器楽曲の作曲も数多くある。

この選集のタイトルには上述のように意図された楽器名が示されている。当時のイギリスでは、スピネットは広く使われており、その小振りなサイズのおかげで、特に裕福な家庭での学習のための主要楽器となっていた。そこではさまざまな実践的芸術表現が見られるが、典型的な奏者は若い女性たちだった。彼女たちの落ち着いた風情は、名演奏の派手さや絢爛さとは疎遠で、この練習曲も同じように慎ましい雰囲気だ。しかし情感のニュアンスは豊かで、優しさが優雅な音楽のスタイルを通して湧き上がるが、それは決して過度に感傷的にはならない。時には音楽が活気を見せても、決して筋骨隆々にはならない。

新たな作曲家がパーセルの名声に肩を並べるまでには、2世紀を要した。ベンジャミン・ブリテンがパーセルのいくつかの作品を選んで、現代的な編曲にして出版した時、彼はパーセルの音楽すべてで輝くあの清澄さ、明晰さ、優しさ、そして独創性のバランスを維持したかったのだと言明している。

感情的細やかさに対する明快な感度を持てば、同じフレーズの中に緊張と安らぎ、旺盛さと自制を見ることができる。この均衡は、ル・ガロワが〔シャンボニエールの演奏を絶賛して〕「華麗な演奏」と「流れる演奏」と書いていたものと似ている。彼によれば、「見事なタッチ」bell manière de toucherは演奏の中で対立する奏法の融合から生まれたとのことだ。

パーセルの曲には、明らかに欧州大陸の音楽からの影響が感じられ、それらには装飾音の繁用という共通点もある。

パーセルの選集より先行しているのが『優美さのための規則』Rules for Gracesで、それはF. クープランの『クラヴサン奏法』に見られるものと極めて似ている:「率直に言って、私は驚きを与えるものより、心を動かされるものの方が好きだ。」この肯定は、今回の選集のスタイルと完全に合致するもので、我らが作曲家のハープシコードの曲作りにおいて、同じ類の情動を示唆するものだ。

当時はイタリア様式が、とりわけ声楽の作曲では、音楽の標準規範と考えられていて、パーセルの作品でもその様式の要素が見られる。特に前奏曲で、アゴーギクの解釈における斬新な柔軟性を見せる作曲法などだ。

小節のない演奏様式が特徴のフレスコバルディの音楽は、イギリス音楽に多大な影響を与えた。ジョン・ブロウはパーセルのオルガンの師匠で、彼はフレスコバルディの『トッカータ』からいくつかの曲を紹介する作曲を試みている。フレスコバルディの音楽は、厳格な拍子に囚われない演奏様式で、イギリスの音楽制作に影響を及ぼした。

パーセルにはもうひとり注目すべき師匠がいた。フランスに居住し、リュリの影響下で働いたペラム・ハンフリーは、その結果フランス様式を修得したが、その当時最も影響力のある作曲家(ジャコモ・カリッシミなど)の間で流行していたイタリア様式も学んだ。この様式融合はパーセルの作品にも大きく影響し、それらが歴史的行事と強く関連することとなった。

歴史的文脈

1649年、チャールズ1世は4年間の市民戦争の末に斬首された。反乱の首謀者オリバー・クロムウェルが議会の支持を得ることに成功し、君主制は終焉し、共和制が始まった。イングランドとウェールズが、そして後にアイルランドとスコットランドも加わり、国家は再統一された。

欧州はその孤立主義的姿勢と、イングランドで広まっていた清教徒運動のため、この新しい共和制を全面支持しなかった。宗教運動が演劇や音楽を廃退芸術と断罪したことで、文化交流は益々困難になった。17世紀初頭に大きな支持を得たイングランドの音楽運動は、教会での宗教的儀式から排除されたため(共同体の讃美歌を除く)、困難に直面した。

議会はあらゆる大聖堂、大学教会、教区教会、礼拝堂のオルガンをすべて取り壊すことを宣言した。このことは当時の音楽家の生活に甚大な変化を引き起こした。音楽教育は何世紀もの間、宗教機関や礼拝と結びついていたからだ。

期を同じくして、欧州では音楽の嗜好に進歩と変化があった。1660年にチャールズ2世が君主制を復活させた時には、イングランドは欧州の中心部を活気づけていた最新鋭の音楽をすべて吸収する必要に迫られていた。イタリアとフランスは、新しく独創的な音楽様式を発展させることで、革新的な中心地となっていたのだ。多くのイタリアやフランスの音楽家がイングランドの王室に招聘され、チャールズ2世はこの変化に追いつけるよう配下の最も優れた作曲家たちを海外に送り込んだ。王室礼拝堂の聖歌隊が復活し、若い音楽家育成の規範となった。

ヘンリー・パーセルはそうした中の一人で、彼は時代を走り抜き、新たな時代のあらゆる矛盾を表現した。その結果が、この芸術的ルネサンスの頂点を代表する独自の独創的様式の創出だった。

その人生と作品

ヘンリー・パーセルは1659年、音楽家の家庭に生まれた。ヘンリーが6歳の時に亡くなった父親も、また伯父も、王室礼拝堂のジェントルマン〔家紋を持つ特権身分〕として、さまざまな地位を得ていた。その結果、ヘンリーは極めて若い年齢で、王室礼拝堂の聖歌隊員となり、そこでヘンリー・クックの指導を受けた。クックの後継者がペラム・ハンフリーとジョン・ブロウで、彼らはパーセルの作曲の才能を後押しして、リュリの様式やイタリア・バロック派についての知識を伝えた。

パーセルは1677年にマシュー・ロックの後任として、王室典礼すべての音楽を作曲する役割の王室作曲家に就任した。これは、さまざまな機会(君主の戴冠式、女王の誕生日、国王の旅からの帰国など)のための一連のオードを生み出した。そこには、彼がリュリから吸収した祝祭的な様式が特徴としてあり、後にヘンデルが受け継ぐ芸術的レガシーとなる。

1679年パーセルはウェストミンスター寺院のオルガニストとなり、後にオルガンの製作・管理者に任命された。彼は王室礼拝堂の礼拝のために、国教典礼の讃美歌として典型のアンセムを数十曲作曲しており、晩年には劇場に専心している。英国の演劇伝統の中で慣例だった、単に劇に付随する音楽の作曲を超えて、彼は『アーサー王』でのようなドラマの語りと音楽の情景との融合を推し進め、最終的にはイタリア様式による完全な歌劇を作曲した。有名な『ディドとエネアス』だ。

練習曲

この作品は、パーセル没後の1696年にプレイフォード社から出版され、組曲の8作品といくつかの単独小品で構成された版は、妻のフランシス・パーセルの編集によるものだ。この録音の演奏では、後者の小品は、組曲と組曲の間に任意挿入され、調性の連続性を生かして、聴く体験を後押ししている。第7番以外の各組曲は、開始楽章としては典型のプレリュードで始まり、その後はアルマンド、クーラント、サラバンド、あるいはメヌエットという定番の流れで続く。一部の組曲は、英国諸島で生まれ、船乗りが伝統的に演奏した古い舞曲、ホーンパイプで締めくくられる。実のところ、ホーンパイプはジェームズ・クック艦長の命令により、英国海軍訓練の一部を成すものとして、19世紀まで続けられた。この名称は、これらの踊りで元々伴奏に使われていた楽器から来ており、動物の角で作られたものだ。

ある楽器のために書かれた曲のタイトルが、それとは異なる楽器に関連付けられた音楽の例は数多くあるが、その楽器を暗示させるものが様式的に特有な書法や作品全体の特徴に表れるものだ。3つの「トランペット曲」にも同じことが言える。それらはおそらくパーセル自身の作曲の編曲で、トランペットがしばしば主役となる祝賀的作品の大胆にして勝利感あふれる特徴を彷彿とさせる。何百年もの間英国王室の祝典を、最近のチャールズ3世国王の戴冠式に至るまで、特徴づけてきた壮大で厳粛な精神を真に具現化していたのが、パーセルの音楽であることをしっかり記憶にとどめたい。

このアルバムの中で、練習曲に含まれない唯一の作品が、オスティナート・バスの上に組み上げられた有名なハ短調のグラウンドで、ルネサンス期のイングランドではすでに流行していた音楽の形式だ。この低音ラインの上で、右手がさまざまな旋律、転調、変奏を試みる。印象的な序奏が醸しだすメランコリックな趣から、内省的なセクションとより活気あるセクションとが交互に現れて、その感情の明暗が作品に注目すべき表現の深さをもたらしている。この作品で最も際立っているのがそのモダンさで、当時の聴衆を瞬時に虜にしてしまうものだ。チャールズ・バーニーは、1776年の著書「音楽史総論」で「パーセルは彼の先駆者たちすべてを凌駕した。彼の作品は新たな言語を語っているように見える。しかも、その異質さにもかかわらず、それが普遍的に理解されるのだ」と書いている。その現代性が何世紀もの時を超え、今日の我々にも今なお語りかける。

天才の死

1695年11月21日、ヘンリー・パーセルは名声の絶頂期にあって、わずか36歳で亡くなった。死因は不明のままだ。一節では、酒場での度重なる夜ごとの酒盛りの後、妻のフランシスに家から締め出され、肺炎で死亡したと言われている。それよりも不穏当な説としては、チョコレートによる毒殺というのもあるが、当時は罹患することが多かった結核で亡くなった可能性が高い。

生前人々に愛され、彼の死はイングランド全土で悼まれた。彼の芸術的成果は、質・量共に同時代のすべての作曲家を超えていた。史上最も偉大な英国作曲家の一人とされるパーセルは、その重要性から今も国民的存在であり続けており、数多くの協会や団体が彼を称えて設立され、現在も英国で活動を続けている。

彼はウェストミンスター寺院の彼の愛したオルガンの下に埋葬された。墓碑にはこう書かれている。「ヘンリー・パーセルここに眠る。彼はこの世を去り、あの祝福された地に向かった。そこでは彼のハーモニーだけが限度を超すことが許される。」

楽器選択

パーセルの時代の英国のハープシコードは、当時のイタリアの楽器と共通する特徴がいくつかあった。イタリアの楽器は、18世紀にフレミッシュの楽器が人気を得て、各地の楽器製作の流れが確実になるまで、欧州の製作者の手本として何十年もの間貢献していた。イングランドで大きな人気を得ていた鍵盤楽器のスピネットも、発祥はやはりイタリアだった。これらの楽器の特徴は,今回の録音に使用したイタリアン・ハープシコード(1679年製のジョヴァン・バッティスタ・ジュスティによる楽器の複製を、アレッサンドロ及びミケーレ・レイタが製作)と非常に似ていると思われる。その音はグリマルディの楽器の典型的なイタリア的音色とは異なるが、イタリアン・ハープシコードの輝かしさを保持しつつも、より柔らかでよりエレガントな趣がある – それが、適応幅が広く、特に今回のレパートリーに適した選択となっている。


アンジェリカ・セルモ

© Stradivarius 2025: STR37317 liner notes


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