Wednesday, October 7, 2026

若きラファエル・ピションとの対話 - Interview with young Raphaël Pichon


 バッハのモテットBWV1149をピグマリオンが演奏しているのをYouTubeで観て大いに引き込まれたところで、小ミサ曲とカップリングされた彼らのCDがオーションに出品されているのに遭遇して、半ば衝動的にゲットした。Der Gerechte kommt um「義の人は滅ぶ」というタイトルのこの曲はCD発売された10年以上前にはBWV番号がなかったと思う。手許にあるガーディナーのCDにもモテットのタイトルしか書かれていない。

このCDに触手が動いたのは、裏表紙の底部に【ピションとの新たなインタビュー】と書かれていたからだ。その興味深い内容をここに書き留めておく。

音楽は生き物だ Raphaël Pichon 2015年5月20日インタビュー

このバッハの「ミサ・ブレヴィス」の録音は、アンサンブル・ピグマリオンとの初めてのアルバムで、その時あなたは22歳でした。2007年にあなたがこれらの作品を選んだことには、どのような意味があったのでしょうか?若き日の情熱、2年前に設立したばかりの若いアンサンブルの基盤を築くための必要性、あるいは指揮者としての思いを奏者に伝えるための挑戦だったとか?

当時、私たちは皆、大体22歳前後だったと言えるでしょう。それはまさしく冒険でした!私が人生で初めての感動と、音楽的な衝撃を味わったのは、『ヨハネ受難曲』をヴェルサイユ少年合唱団で歌った時でした。その後、思春期には、バッハと、彼のカンタータ、受難曲、モテットに対する尽きることのない好奇心に導かれていきました。また、カンタータの全曲演奏会にも定期的に参加して、これらすべてが私の糧となりました。従って『ピグマリオン』を立ち上げる際、バッハは自然と中心的な存在となっていて、私たちはまず、彼の作品の中でもあまり知られていない部分を取り上げ、それを補完的周辺レパートリーとして構築することを真っ先に考えていました。

「ミサ・ブレヴィス」は、当時まだあまり注目されておらず、『受難曲』や偉大な『ロ短調ミサ曲』の陰に隠れていた作品群でした。その演奏時間や形式の面で、我々のような若い音楽家にとっては理想的で、これらの小さな珠玉の作品は、極めて刺激的で野心的なものであると同時に、他の作品ほど濫用されていなかったという点でも恵まれていました。これらの小ミサ曲が表現する、高揚感、喜び、演劇性、奔放さ、そしてエネルギーなどの融合は、私たちにぴったりだったように思います。

ここまでの7年間を振り返り、またあなたの名声がますます高まっている今、この録音はどのような意味を持つのでしょうか?

このアルバムは、まだ歴史の浅いピグマリオンにとって決定的な節目となりました。というのも、この作品が話題を呼び……そして私たち自身も注目されるきっかけとなったからです。余談ですが、『ル・モンド』紙に掲載されたこのアルバムに対する最初のレビューは、ひどいものでした…… しかし、その少し後、このアルバムが「ディアパソン・ドール」の年間最優秀賞に選ばれたことを知りました!こうした賛否両論の批評は、素晴らしい学びの機会となりました。そして何よりも、私たちが提案するアプローチについて議論が巻き起こり始めたという点で、真の出発点となりました。当時、バッハは依然として主にオランダ人、ベルギー人、ドイツ人、そしてジョン・エリオット・ガーディナーの専有領域と見なされていました。私は当時、この音楽を自分たちのものとし、先人たちが残してくれた遺産を糧に、私たちの情熱とエネルギー、そして寛大さをすべて注ぎ込んで演奏することが重要だと感じていました。

このアルバムから何よりも強く印象に残ったのは、ひとつの団体が生まれて来たことの証しであることです。歌手やミュージシャンである友人たちの集まりから、私たちは、情熱と高い志、そして寛容さに満ちたプロの団体へと変貌を遂げたのです。このアルバムは、音楽的な追求と人間的な冒険の融合に基づいたプロジェクトを、まさに結晶化させたものでした。ある意味、私たちの思春期そのものです!

あらゆる音楽体験を惜しみなく享受されているにもかかわらず、録音でもコンサートでも、バッハがあなたの拠り所であり続けているようです。この作曲家との特別な親和性は、どこから来ているのでしょうか?

それはずいぶん昔に遡ります!私が小さい頃、特別カリキュラムのクラス(音楽・勉学クラス)に在籍していて、最初はヴァイオリンを習っていたため、音楽への取り組みは極めて孤独で、なかなか報われないものでした。特に情熱を注ぐこともなく音楽を続けていましたが、ヴェルサイユの少年合唱団で、とりわけバッハの曲を歌う機会を得たのです。そこで私が即座に魅了されたのは、心と知性との間に存在する、この信じられないほどの絶妙なバランスでした。バッハの音楽は、その「精密な仕組み」を自覚していない10歳の幼い子供の心さえも深く揺さぶることができます。その子が作品の意図や構成、完璧な和声といった要素をすべて理解できなくても、魂の最も深い部分で感動させられるのです。

バッハに備わるこのバランスは、私をこの先も魅了し続けるでしょう。彼の音楽からは並外れた感情的な力が溢れ出て来ますが、それは単なる本能の反映ではなく、同じく並外れた精神によって構築された深遠な思考の反映なのです。私たち音楽家にとって、彼の音楽は最も深遠なもののひとつで、そのすべての側面を探求するには、一生をかけても足りないほどです!『ピグマリオン』の中心にバッハを据えることは当然の選択でした。なぜなら、彼を軸に、さまざまな冒険からなる一貫性のあるレパートリーを構築しつつ、その探求を際限なく続け、ひいてはバッハに対する私たちの解釈をさらに豊かにすることができるからです。

私が当初からこの作品群と結びつけたいと考えていたもうひとりの人物は、ラモーです。彼の名前そのものが『ピグマリオン』を彷彿とさせ、今日、私たちが深く関心を寄せている人物でもあります。彼は『ピグマリオン』の演劇的・抒情的な側面を体現しています。ラモーはバッハと多くの共通点を持っています。彼もまた偉大な理論家であり、当時の重要な知識人であり、「音楽は心の言語である」と私たちに語りかける作曲家であり、彼にとって舞踊は不可欠な要素でした!彼の抒情作品に登場する舞曲たちは、フランス音楽の頂点と言えるものです!そして、舞踊はバッハの音楽全体、声楽作品も器楽作品も問わず、その隅々まで浸透しているのです。

あなたのミサ曲は、まさに踊りや力強さを与えるエネルギーを放っており、その熱量と生命への渇望が、楽譜の神的なものをほとんど解(ほど)いていくかのようです。道徳や神秘主義の重圧が薄れ、色彩のきらめきが増しています。あなたの声楽や楽器の選択も、決して偶然ではありません。それらにどのようなインスピレーションを受けたのでしょうか?

「道徳や神秘主義の重みが軽減される」とは、必ずしも言いたくありません…… むしろこう答えるほうが自然でしょう。すなわち、これらのミサ曲から滲み出るリズミカルでダイナミック、そしてハーモニックな高揚感を具現化し、それが伝える信仰のメッセージに役立てること。バッハの新しい演奏家たちには、彼の死後かなり経ってその音楽が再発見された時代に、バッハという人物が利用されてきたことに対する反動を見ることができると思います。その厳格で神秘的、そして避けては通れない存在として、音楽そのものよりもむしろ器楽や作曲の技術として教えられてきたこの像は、バッハ本人とは何の関係もなく作り直したものに過ぎません。私たちは、バッハを距離を置いて見るべきではないと私は思っています。もちろん、彼自身も記しているように、彼は生涯を「神の栄光のみのために」捧げました。彼が他のどの作曲家よりも人間の本質を捉えていたとしても、彼の音楽は私たちにいつまでも希望を抱かせてくれます。最も深い闇の後にさえ光に包まれ、踊りの息吹に満ちたバッハの宗教音楽は、劇的な音楽の最も傑出した表現のひとつです。オペラを一切作曲しなかったにもかかわらず、バッハは音楽史上最も劇的な作曲家のひとりなのです!

つい最近、ケイティ・ミッチェルと共にカンタータの舞台演出を手掛けられましたね。また、バッハは「オペラに取り組むための極めて自然な入り口」であると述べられていました。その理由は、そこではすべてがドラマだからだと。これらのミサ曲も、舞台化に適しているのでしょうか?

ありとあらゆることは想像可能ですが、私はバッハのミサ曲を舞台化することは想像できません。それらはそれ自体で完結した作品であり、ラテン語の典礼文に基づいているからです。カンタータも確かにそうですが、それらは大抵敬虔派の詩に基づいています。しかし、ケイティ・ミッチェルとの公演は、作品に対して自由な解釈を加えるという決断から生まれました:私たちはあえてカンタータを分解し、そこからいくつかの場面を抜き出し、それらを再構成することで、登場人物たちの内面的な旅路のようなものを描き出しました。ケイティ・ミッチェルには、私が『受難曲』の舞台演出を大変高く評価しているピーター・セラーズと同様に、バッハの音楽がそれ自体で完結しているという深い認識があると思います: 彼らは音楽に奉仕し、極めてシンプルな手法によって、イメージや視覚的・感覚的な文脈を創り出す意志を持っています。それによって、私たちは特別な形で音楽を聴き、それを私たちの日常や人間性へと結びつけ、そうしてある種の障壁を越えていくことができるのです。

18世紀の音楽の原点に立ち返るには、本質的な調査実施を必要とします。しかし、今日、バロックのレパートリーに取り組むということは、ひとつの完璧な再現であるよりも、むしろアプローチの試みであり、リスクを冒すことであり、楽譜に対する本能的かつ理論的な裁量なのではないでしょうか?

まず強調しておきたいのは、私の世代は、先人たちが積み重ねてきた基礎的な研究の成果に支えられて成長できたという幸運に恵まれていたということです。私にとって、バッハを古楽器で演奏すべきか、現代の楽器で演奏すべきかという疑問は、一度も浮かんだことがありません!同様に、今日では「バロック」という用語は不適切なものであり、この歴史的時代の中には多くの異なる潮流が存在することが認められています。こうした大きな問いはすべて、1960年代から、そして本格的には1970年代から1980年代にかけて、これらのレパートリーを演奏伝統とは一線を画そうとの思いを持つ世代によって提起されました。私自身も、彼らが最初に提示した答えや研究成果とともに成長してきました。もちろん、まだやるべきことは山ほど残っています。裁量の作業、作品の理解は不可欠ですが、もはやかつてのような「決別」を目的としたアプローチではありません。

私たち若い音楽家にとって、その結果として、今、私たちには責任感を持つ必要があるということです。これらすべてをどう扱うべきか?どうすれば、ささやかながらも物事を前進させることができるのか?私の答えは決まっているわけではなく、まだ非常に未定ですが、何が何でも忘れ去られた楽譜を探し続けようとするのが、必ずしも唯一の答えとは限りません。私にとっての答えの端緒は、一部の偉大な作曲家たちには、まだ解明されていない部分、つまり彼らの個性や作品に隠された側面があり、それらに命を吹き込む必要があるということです。これらの小ミサ曲や、1733年の『小さなロ短調ミサ曲』、宝と教訓に満ちたラモーの偉大な悲劇作品の未発表版、そして古楽器を用いた現代の創作作品などには、こうした考えが込められていました……私にとって、こうした取り組みは、レパートリーの偉大な傑作に取り組むための理想的な糧となるのです。

一部の指揮者は、声や発音、歌詞のフレーズを、楽器を扱う際の指針としています。もともと歌手だったあなたも、そのような考えをお持ちですか?

はい、もちろん、声の影響はあります。それは我々が意図して選ぶというより、その音楽そのものの言語がそれを決定し、必然的にそうさせるのだと思います。実際、私は10代の頃、器楽奏者としても歌手としても成長する幸運に恵まれました。また、歌手として短期間ですがプロとしての経験も積むことができました。ですから、私にはこのふたつのアプローチがあり、それがピグマリオンとの仕事において、声を楽器として扱い、楽器を声として使うことを核心に据えさせています。どうすればオーケストラを歌わせることができるか?合唱団で、楽器のような正確さと音色の多彩さをどう実現するか?。この器楽と声楽の融合こそが、私の仕事の根底にあるものだと感じています。

現在、ご自身のアンサンブルを率いる立場として、何よりも伝えたいことは何でしょうか?

とてもシンプルな答えになりますが、何よりも伝えたいのは、音楽 ― とりわけ、どんな時代や文化にも存在する「偉大な」音楽 ― が、人々の人生を変え、その人生を本質的に豊かにすることができる、という事実です。これは芸術全般に言えることですが、とりわけ音楽は身体的な感覚や五感と結びついているため、その傾向が顕著です。この比類なき豊かさを生き生きと表現し、聴衆にその魅力を伝えることこそが、私たち音楽家としての使命の真髄であると思います。

もし今日、これらのミサ曲を再録音する機会があったとしたら、何か変更を加えますか?

「はい」も「いいえ」もです。いいえ、と言うのは何も後悔がないからです。このアルバムは当時、深い誠実さと意志、エネルギーが混ざり合ったものでしたし、私たちには経験が乏しかったため、困難も伴っていました。このアルバムは、あえて言えば不完全ですが、根底には誠実さが流れています。その点については、変えたくありません。一方で、もし明日、再録音の提案をいただいたとしたら、多くの点を変えるでしょう。私自身も変わりましたし、ピグマリオンも進化しましたし、私たちのサウンドも変わったからです。それこそが、この仕事、そして音楽全般の豊かさと活気の源なのです。それはまさに生き物のようなものなのです!


Friday, August 7, 2026

桜と藤 - Cherry and Wisteria Blossoms in April

遅れ馳せではあるが、今年4月の花見はあまり遠出はせず、それでも良い発見もあった。
桜はあきる野市の山奥、武蔵五日市駅からバスで小1時間の人里[へんぼり]の枝垂れ。

Henbori

帰路、荷田子で途中バスを降りて、お気に入りの里風景を眺める。
Nitago

下旬に入って、藤を観に大船の日比谷花壇を訪ねた。豪華とは言えないが一応の納得。


Hibiya-Kadan, Ohfuna



 

Sunday, July 12, 2026

カンペールがまた壊れた - CAMPER collapses again!

 

CAMPERのソールがまた剥がれた。以前、ソール自体がバラバラに崩壊した靴もある。
見た目は良いんだけど、何しろ脆いCAMPER。とは言え、このトラブルはカンペールだけではなくて、NORTH FACEのブーツも一足処分したし、ドイツ製の登山靴で山歩き中に片足のソールが剥がれだして難儀したこともある(PL案件!)。
接着剤は信頼できないというのが経験値。

The sole of my CAMPER shoes came off. Before this, I had a pair the soles of which collapsed completely.
So nice to look at, but very fragile, seriously... That's CAMPER.
This trouble is not only with CAMPER though, as I experienced it with THE NORTH FACE boots that I had to trash, and the Vibram sole of German climbing boots started chattering as it was almost coming off while I was trekking (which is Product Liability issue indeed)!
Glues are not at all reliable in my experience.






Sunday, April 19, 2026

A Choice Collection of Lessons for Harpsichord or Spinnet - ヘンリー・パーセルの鍵盤練習曲選集

 「練習曲選集」と謳って、パーセルの組曲が並んでいるCDを目にして、取り寄せてみた。奏者はイタリアのアンジェリカ・セルモ。この選集に取り組んだ意欲のほどが解説から読み取れるので、訳出しておいた。


ヘンリー・パーセル – ハープシコードあるいはスピネットのための練習曲選集

様式

その音楽によって人々を魅了する能力から、『ブリタニアのオルフェオ』とも言われたヘンリー・パーセルは、バロック期のイギリスで最も有名な作曲家だ。彼は主に劇的作品の評価が高いが、『ハープシコードあるいはスピネットのための練習曲選集』のような器楽曲の作曲も数多くある。

この選集のタイトルには上述のように意図された楽器名が示されている。当時のイギリスでは、スピネットは広く使われており、その小振りなサイズのおかげで、特に裕福な家庭での学習のための主要楽器となっていた。そこではさまざまな実践的芸術表現が見られるが、典型的な奏者は若い女性たちだった。彼女たちの落ち着いた風情は、名演奏の派手さや絢爛さとは疎遠で、この練習曲も同じように慎ましい雰囲気だ。しかし情感のニュアンスは豊かで、優しさが優雅な音楽のスタイルを通して湧き上がるが、それは決して過度に感傷的にはならない。時には音楽が活気を見せても、決して筋骨隆々にはならない。

新たな作曲家がパーセルの名声に肩を並べるまでには、2世紀を要した。ベンジャミン・ブリテンがパーセルのいくつかの作品を選んで、現代的な編曲にして出版した時、彼はパーセルの音楽すべてで輝くあの清澄さ、明晰さ、優しさ、そして独創性のバランスを維持したかったのだと言明している。

感情的細やかさに対する明快な感度を持てば、同じフレーズの中に緊張と安らぎ、旺盛さと自制を見ることができる。この均衡は、ル・ガロワが〔シャンボニエールの演奏を絶賛して〕「華麗な演奏」と「流れる演奏」と書いていたものと似ている。彼によれば、「見事なタッチ」bell manière de toucherは演奏の中で対立する奏法の融合から生まれたとのことだ。

パーセルの曲には、明らかに欧州大陸の音楽からの影響が感じられ、それらには装飾音の繁用という共通点もある。

パーセルの選集より先行しているのが『優美さのための規則』Rules for Gracesで、それはF. クープランの『クラヴサン奏法』に見られるものと極めて似ている:「率直に言って、私は驚きを与えるものより、心を動かされるものの方が好きだ。」この肯定は、今回の選集のスタイルと完全に合致するもので、我らが作曲家のハープシコードの曲作りにおいて、同じ類の情動を示唆するものだ。

当時はイタリア様式が、とりわけ声楽の作曲では、音楽の標準規範と考えられていて、パーセルの作品でもその様式の要素が見られる。特に前奏曲で、アゴーギクの解釈における斬新な柔軟性を見せる作曲法などだ。

小節のない演奏様式が特徴のフレスコバルディの音楽は、イギリス音楽に多大な影響を与えた。ジョン・ブロウはパーセルのオルガンの師匠で、彼はフレスコバルディの『トッカータ』からいくつかの曲を紹介する作曲を試みている。フレスコバルディの音楽は、厳格な拍子に囚われない演奏様式で、イギリスの音楽制作に影響を及ぼした。

パーセルにはもうひとり注目すべき師匠がいた。フランスに居住し、リュリの影響下で働いたペラム・ハンフリーは、その結果フランス様式を修得したが、その当時最も影響力のある作曲家(ジャコモ・カリッシミなど)の間で流行していたイタリア様式も学んだ。この様式融合はパーセルの作品にも大きく影響し、それらが歴史的行事と強く関連することとなった。

歴史的文脈

1649年、チャールズ1世は4年間の市民戦争の末に斬首された。反乱の首謀者オリバー・クロムウェルが議会の支持を得ることに成功し、君主制は終焉し、共和制が始まった。イングランドとウェールズが、そして後にアイルランドとスコットランドも加わり、国家は再統一された。

欧州はその孤立主義的姿勢と、イングランドで広まっていた清教徒運動のため、この新しい共和制を全面支持しなかった。宗教運動が演劇や音楽を廃退芸術と断罪したことで、文化交流は益々困難になった。17世紀初頭に大きな支持を得たイングランドの音楽運動は、教会での宗教的儀式から排除されたため(共同体の讃美歌を除く)、困難に直面した。

議会はあらゆる大聖堂、大学教会、教区教会、礼拝堂のオルガンをすべて取り壊すことを宣言した。このことは当時の音楽家の生活に甚大な変化を引き起こした。音楽教育は何世紀もの間、宗教機関や礼拝と結びついていたからだ。

期を同じくして、欧州では音楽の嗜好に進歩と変化があった。1660年にチャールズ2世が君主制を復活させた時には、イングランドは欧州の中心部を活気づけていた最新鋭の音楽をすべて吸収する必要に迫られていた。イタリアとフランスは、新しく独創的な音楽様式を発展させることで、革新的な中心地となっていたのだ。多くのイタリアやフランスの音楽家がイングランドの王室に招聘され、チャールズ2世はこの変化に追いつけるよう配下の最も優れた作曲家たちを海外に送り込んだ。王室礼拝堂の聖歌隊が復活し、若い音楽家育成の規範となった。

ヘンリー・パーセルはそうした中の一人で、彼は時代を走り抜き、新たな時代のあらゆる矛盾を表現した。その結果が、この芸術的ルネサンスの頂点を代表する独自の独創的様式の創出だった。

その人生と作品

ヘンリー・パーセルは1659年、音楽家の家庭に生まれた。ヘンリーが6歳の時に亡くなった父親も、また伯父も、王室礼拝堂のジェントルマン〔家紋を持つ特権身分〕として、さまざまな地位を得ていた。その結果、ヘンリーは極めて若い年齢で、王室礼拝堂の聖歌隊員となり、そこでヘンリー・クックの指導を受けた。クックの後継者がペラム・ハンフリーとジョン・ブロウで、彼らはパーセルの作曲の才能を後押しして、リュリの様式やイタリア・バロック派についての知識を伝えた。

パーセルは1677年にマシュー・ロックの後任として、王室典礼すべての音楽を作曲する役割の王室作曲家に就任した。これは、さまざまな機会(君主の戴冠式、女王の誕生日、国王の旅からの帰国など)のための一連のオードを生み出した。そこには、彼がリュリから吸収した祝祭的な様式が特徴としてあり、後にヘンデルが受け継ぐ芸術的レガシーとなる。

1679年パーセルはウェストミンスター寺院のオルガニストとなり、後にオルガンの製作・管理者に任命された。彼は王室礼拝堂の礼拝のために、国教典礼の讃美歌として典型のアンセムを数十曲作曲しており、晩年には劇場に専心している。英国の演劇伝統の中で慣例だった、単に劇に付随する音楽の作曲を超えて、彼は『アーサー王』でのようなドラマの語りと音楽の情景との融合を推し進め、最終的にはイタリア様式による完全な歌劇を作曲した。有名な『ディドとエネアス』だ。

練習曲

この作品は、パーセル没後の1696年にプレイフォード社から出版され、組曲の8作品といくつかの単独小品で構成された版は、妻のフランシス・パーセルの編集によるものだ。この録音の演奏では、後者の小品は、組曲と組曲の間に任意挿入され、調性の連続性を生かして、聴く体験を後押ししている。第7番以外の各組曲は、開始楽章としては典型のプレリュードで始まり、その後はアルマンド、クーラント、サラバンド、あるいはメヌエットという定番の流れで続く。一部の組曲は、英国諸島で生まれ、船乗りが伝統的に演奏した古い舞曲、ホーンパイプで締めくくられる。実のところ、ホーンパイプはジェームズ・クック艦長の命令により、英国海軍訓練の一部を成すものとして、19世紀まで続けられた。この名称は、これらの踊りで元々伴奏に使われていた楽器から来ており、動物の角で作られたものだ。

ある楽器のために書かれた曲のタイトルが、それとは異なる楽器に関連付けられた音楽の例は数多くあるが、その楽器を暗示させるものが様式的に特有な書法や作品全体の特徴に表れるものだ。3つの「トランペット曲」にも同じことが言える。それらはおそらくパーセル自身の作曲の編曲で、トランペットがしばしば主役となる祝賀的作品の大胆にして勝利感あふれる特徴を彷彿とさせる。何百年もの間英国王室の祝典を、最近のチャールズ3世国王の戴冠式に至るまで、特徴づけてきた壮大で厳粛な精神を真に具現化していたのが、パーセルの音楽であることをしっかり記憶にとどめたい。

このアルバムの中で、練習曲に含まれない唯一の作品が、オスティナート・バスの上に組み上げられた有名なハ短調のグラウンドで、ルネサンス期のイングランドではすでに流行していた音楽の形式だ。この低音ラインの上で、右手がさまざまな旋律、転調、変奏を試みる。印象的な序奏が醸しだすメランコリックな趣から、内省的なセクションとより活気あるセクションとが交互に現れて、その感情の明暗が作品に注目すべき表現の深さをもたらしている。この作品で最も際立っているのがそのモダンさで、当時の聴衆を瞬時に虜にしてしまうものだ。チャールズ・バーニーは、1776年の著書「音楽史総論」で「パーセルは彼の先駆者たちすべてを凌駕した。彼の作品は新たな言語を語っているように見える。しかも、その異質さにもかかわらず、それが普遍的に理解されるのだ」と書いている。その現代性が何世紀もの時を超え、今日の我々にも今なお語りかける。

天才の死

1695年11月21日、ヘンリー・パーセルは名声の絶頂期にあって、わずか36歳で亡くなった。死因は不明のままだ。一節では、酒場での度重なる夜ごとの酒盛りの後、妻のフランシスに家から締め出され、肺炎で死亡したと言われている。それよりも不穏当な説としては、チョコレートによる毒殺というのもあるが、当時は罹患することが多かった結核で亡くなった可能性が高い。

生前人々に愛され、彼の死はイングランド全土で悼まれた。彼の芸術的成果は、質・量共に同時代のすべての作曲家を超えていた。史上最も偉大な英国作曲家の一人とされるパーセルは、その重要性から今も国民的存在であり続けており、数多くの協会や団体が彼を称えて設立され、現在も英国で活動を続けている。

彼はウェストミンスター寺院の彼の愛したオルガンの下に埋葬された。墓碑にはこう書かれている。「ヘンリー・パーセルここに眠る。彼はこの世を去り、あの祝福された地に向かった。そこでは彼のハーモニーだけが限度を超すことが許される。」

楽器選択

パーセルの時代の英国のハープシコードは、当時のイタリアの楽器と共通する特徴がいくつかあった。イタリアの楽器は、18世紀にフレミッシュの楽器が人気を得て、各地の楽器製作の流れが確実になるまで、欧州の製作者の手本として何十年もの間貢献していた。イングランドで大きな人気を得ていた鍵盤楽器のスピネットも、発祥はやはりイタリアだった。これらの楽器の特徴は,今回の録音に使用したイタリアン・ハープシコード(1679年製のジョヴァン・バッティスタ・ジュスティによる楽器の複製を、アレッサンドロ及びミケーレ・レイタが製作)と非常に似ていると思われる。その音はグリマルディの楽器の典型的なイタリア的音色とは異なるが、イタリアン・ハープシコードの輝かしさを保持しつつも、より柔らかでよりエレガントな趣がある – それが、適応幅が広く、特に今回のレパートリーに適した選択となっている。


アンジェリカ・セルモ

© Stradivarius 2025: STR37317 liner notes


Tuesday, March 3, 2026

3月に冬景色 Winter's view comes back in March


昨日から温泉骨休めで草津に来ているが、深夜に雪が降り始め一夜にして冬景色となる。
草津はインバウンド人気が根強く、インフラ投資もチラホラと進められているように見えるし、今は若者グループの観光も多い。


Wednesday, February 4, 2026

モーツァルトのハ短調ミサ曲 - Mozart c-minor Mass K. 427


永らく遠ざかっていたブログだが、年も改まったところで近況をひとつ。今年最初の演奏会にトリフォニーまで出掛けた。Jos Chorのハ短調ミサ曲だ。この曲についてはいくつか思い出がある。自分でも歌っていた数年前に、本番直前でインフルエンザに罹り出演断念となった。なのでこのフェルトホーフェンさんの指揮は、最初バッハのマニフィカートとカップリングと聞いていたので参加しようかと思ったくらいだが、演目が変更され暗譜という噂も聞いて尻込みした。工夫を凝らした選曲を楽しむコンサートだった。男声が少ない!


20年前の2006年、僕はガーディナーの演奏を2回、サンフランシスコとグラナダで聴いている。グラナダでの演奏では、途中からまったく知らない曲になって行って、どうしたんだろうと動揺したが、後でプログラム冊子のスペイン語を必死に読んだところ、どうやらロバート・レヴィン版というのを使ったらしい。この版は、Crucifixus、Et resurrexit、Et im Spiritum Sanctum、Et unam sanctam、Et vitam venturi、さらに最後のAgnus DeiとDona nobis pacemの7曲が追加されているとのことだ。最近はレクイエムでも異なる版での録音がいくつか出て来たので、今ならレヴィン版にも驚かなかったかも知れない。