Thursday, December 17, 2015

Tempered Glass Screen Protector for My iPhone 6Plus - 強化ガラス保護フィルム

携帯の液晶保護フィルムの汚れが目立つので、少し奮発して強化ガラスにしようと思っているうちに、最近価格が一時の1/3まで急降下と知って早速ポチる。このAnker製品も900円未満、装着手順が合理的で大いに満足。透光性高く、超グレアだが美しい。


The display protection sheet of my cellular got dirty, and I was thinking of a more costly glass-version for a while. In the meantime, luckily the price went down to about one-third (less Y900), so I bought this Anker product that was very satisfying with quite logical procedures for installation. It is very glossy, extremely transparent and beautiful!

Wednesday, December 16, 2015

永青文庫・春画展 - Pornographic Shunga Exhibition



永青文庫の春画展に行ってみた。小さな会場はかなり混んでいて、しかも作品の前に並ぶ人たちの列が遅々として動かない。とにかく時間効率が悪いので、2列目で肩越しに飛ばしながらの鑑賞となった。展示は期間を4回に分けて入れ替えしたようで、一度では全体を俯瞰して鑑賞できる訳ではないが、江戸の最盛期だけでなく古いものやもっと時代が下った作品まで網羅されているので、その点の学習効果はあった。僕が入場した時は館外まで行列はなかったが、帰る時にはこんな調子に膨らんでいた。こうしてみると日本人のエロチシズムへの情熱は年齢を問わずまだそこそこ熱いようだ。自分も例外ではないと言うことだが。


Fox Tadanobu and Hatsune, 19th century

"Shunga" is famous Japanese pornography that used be popular in the 18th century. I recall there was an extensive exhibition in National Gallery, England a few years ago, but such events are not so often found in Japan. There was one in Eisei-Bunko in Tokyo, and I visited. The gallery was smallish and pretty much filled with visitors who moved exceptionally slowly along the displays. It looked least time-efficient and I proceeded in the second line to look at the paintings over the people's shoulders. They had some older and newer works as well as those in the most flourish era, which was good for understanding the historic aspect of this art. As I left the gallery, I was amusedly surprised with the line of visitors that stretched to the outside of the building literally illustrating how much love we Japanese had into porn arts regardless of ages, and I may not be an exception!

Wednesday, December 2, 2015

ガーディナーのロ短調ミサ新譜 - Gardiner's B-minor Mass 2015 Release

ここ2年くらい、ガーディナーは欧州各地の都市を巡回してロ短調ミサの演奏会を催しており、あいにく僕の旅行とタイミングは合わなかったが、パリの友人は聴きに行ったと伝えてくれた。そして今回の新譜の案内から約2週間、SDGから早々とCDが届いた。録音情報は2015年3月28-31日、ロンドンのLSO聖ルカ教会となっていたのを、1ページずつ隈なくめくってやっと見つけた。ガーディナー自身が解説したやや長文のライナーノーツがあるが、これは彼の著書からの抜粋だ。なにしろ600頁を超える長編でしかも難解な語彙を使いまくるガーディナーのバッハ本なので、僕は読破を試みるも頓挫したままになっている。それでもここはロ短調ミサに集中してまとめてくれているので、日本語にしておくことにした。→文末参照。

さて今回の録音だが音はすごくドライで、もちろん彼の録音はいつも響き過多傾向にはないのだが、まるでスタジオ収録のように近い聞こえ方に感じた。そんなこともあって、僕個人としては一昨年ロイヤル・アルバート・ホールからBBC生中継された演奏の方に好感を持つ。あの時はバッハ・マラソンという9時間イベントの締めくくりで、その様子を他のロ短調ミサ演奏と共に紹介しているので、参考までにリンクしておく。


For these 2 years or so, Gardiner travels to several cities in Europe to perform Bach's B-minor mass, and it has been unfortunate that my visits never coincided with them timely although a friend of mine in Paris did not miss one. And now comes the recording. Swiftly 2 weeks after its release announcement, I received the CD copy from SDG. The recording took place at LSO St. Luke on 28 through 31 March, 2015 that I scanned every single page carefully in the CD book and found in the last page. Gardiner himself wrote the fairly long liner notes which is actually a summarized excerpt from his book "Music in the Castle of Heaven". I tried to read it through, but it is at a setback for the moment because it is a huge study about Bach amounting over 600 pages with full of Gardinerish lofty vocabulary. Being handy enough the note seems, I am going to translate it down into Japanese.

The sound of this latest recording is rather dry, and while Gardiner's recordings never go excessive with reverberation ambience, this sound very close as if in a studio session. This is probably one of reasons I tend to favor the performance at Royal Albert hall 2 years ago as part of "Bach Marathon" event that BBC broadcast live in the net. I show the link of my old post that discuss it as well as other B-minor mass performances FYI.

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バッハのロ短調ミサ曲冒頭で三度刻まれる”Kyrie”の響き - それはあたかも舞台演劇のようで、聞き手であれ演じ手であれ、我々一人ひとりが個別的にあるいは集合的にそこに引き込まれる。この濃密で動的な4 小節の提示により、我々はそこで自然に祈りの仕草を取る。ティッツィアーノやルーベンスの祭壇画に描かれたような姿だ。最初のロ短調和音の強拍とその苦悩の帰結から我々の期待が喚起され、この4小節が終わると荘厳で巨大なフーガが抑制的な祈りの感覚と共に始まる。あらゆる音楽の中でも、ミサ典礼文として規模、偉大さ、そして謹厳さにおいて空前の作品という、最も壮大な体験に我々は旅立ったのだ。
この記念碑的な冒頭小節に身を委ねると、それを先遣としてこのミサ全曲を聞き通す以外ないと感じ、かくも強烈な心動く展開感から、曲全体の発想と具体化は作曲者の頭の中では中断なく一気に進んだであろうと思われる。しかし現実はそうではなかったようで、バッハがこの壮大なミサ曲を作り上げる過程で何度かの中断があったことを我々は拾い出してしている。バッハがこの曲を完成させたのはその晩年2 年間で、ただしその曲想の種は40年ほど前に遡り、ワイマール公宮廷で過ごした探求時代であったと研究者の間では概ね見解は一致している。ミサ曲でCrucifixusの楽章の元になっているのはまさにその時期のもので、1714年作曲のカンタータ第12番「泣き、嘆き」冒頭の合唱がそれに当たる。バッハが大ミサ曲に引用したバッハ自身の曲としては最も古いものだ。
バッハがラテン語歌詞を意識するようになったのは彼の中期の時代だが、どうして彼がカトリック不変のラテン語歌詞による完全なミサ曲に着手するという考えに至ったのかは判っていない。18世紀のルター派作曲家がそれに取り組むというのは普通ではない。但しルターはギリシャ語やラテン語の原典を確固とした自国語版にして信者たちに残す一方で、信仰の完全な全世界的理解への配慮から礼拝の儀式においてMissa brevis(小ミサ)の継続使用は是認していた。従ってギリシャ語のKyrieとそれに続くラテン語のGloriaはルター派礼拝のスタイルでも新たなドイツ語典礼などとともに短いミサを構成するものとして生き残っていたのだ。バッハがこの小作品分野で初めて作曲を試みたのは1733年だった。49歳の生涯のこの時期、彼のライプツィッヒでの職務的状況は悪化していて、新市長となったヤコブ・ボルンはバッハにもっと真剣に教育の任務を果たすことを求めてきたが、評議会に「業務に努力の姿勢が見られない」と報告して、その地位から罷免することを試みた。いかに立場を改善するか、あるいはいっそすべてから脱出でもするか、そこで閃いた考えは3年ほど前にライプツィッヒの評議会に提示していた彼の「教会音楽整備のための簡潔にしてきわめて重要な起案」だった。その中で彼は音楽がどのように組織活用できるかまたすべきかについてドレスデン宮廷を配慮することを謳っており、これは批判的なものというより、単に音楽にそしてザクセンの関係者にライプツィッヒより高い価値を持たせようとしたものだった。そこでは魅力に満ちた才能ある音楽家たちが作曲家としてのバッハの専門的地位と野望を花咲かせることになる---と彼は考えたであろう。丁度その時、かつてバッハがオルガンリサイタルで絶賛を博したドレスデンのゾフィー教会でオルガニストの職に空きが生じた。バッハはこの絶好の機会に照準を定めたが、それは彼自身ではなく長男ヴィルヘルム・フリーデマンのためとした。バッハの熱心な(但し隠れ蓑としての)支援のもと、フリーデマンはこの地位を得て、ドレスデン宮廷楽団から暖かい称賛を受けることになった。こうしてバッハはドレスデンに旅する有効な言い訳を手中にする。到着早々彼は新しいザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世に美しく仕上げられた新作のミサ・ブレヴィス(KyrieGloria構成)を添えて、宮廷内の地位として「気高き貴宮廷の賓位」を請願した。
バッハがこの献呈ミサ曲をそれ自体で十全な作品と考えていたのは至極当然で、彼がドレスデン・ミサ曲を我々にも馴染みある完全ミサ曲の冒頭2楽章として含み込ませようと思い至るまでにはまだ何年も経なければならない。我々がロ短調ミサ曲として見ている原曲はバラバラに作られたもので、その機能も目的も概ね曖昧だ。その形成と融合には長い年月を必要とし、おそらくバッハはそれを演奏によって体験するという恩恵など得ることはなかったし、自らの作曲技量を先々のために総括として実験する機会もなかったであろう。
Gloriaの全9楽章のほぼすべては原曲としてそれに先立つ作品があるとされ、そのいくつかは逸失している。従ってバッハが17336月ドレスデンに旅立つ時、彼の頭の中には既にどの曲が最適に応用できるかという新しい考えなど、「ミサ曲」の基本構想は出来ていたかも知れない。それでもそれらの曲を既存の典礼文構成の中に再適合させるには並外れた技量が必要で、その上で各パーツはコピー可能となりミサ曲が仕上がる訳だ。明らかに望ましい展開はこの短い2楽章ミサ曲を理想的には献呈対象の選帝侯臨席の下で演奏することだったであろう。それは礼拝としてはルター派のゾフィー教会でも、カトリックのホフ教会でも適切で、荘厳祭日には宮廷楽団が定期的に演奏を行っていた。バッハの楽譜には当時ドレスデンで流行し始めていたナポリ風のミサ作品との類似性があり、アリアのために1730年にイタリアから新たに招聘された独唱者とか楽団内の楽器演奏名手など、特別なアンサンブルを想定して作曲されたと思わせる大きな特徴を備えていた。さらにバッハはオーケストラの曲作りに宮廷楽団で彼が信頼し、起案でも特に賞賛していた演奏家の名人芸や様式の多彩さを発揮させる機会をふんだんに持たせていた。バッハがスターを散りばめ、ドレスデンの友人たち(ボヘミアの作曲家Jan Dismas Zelenka、ヴァイオリニストのJohann Georg Pisendel、そして彼自身の長男Friedemannなど)を集めて周到にリハーサルを重ねた初期版のロ短調ミサ曲を初演したと思い描くのは確かに惹かれる話ではあるが、それを証明する材料は何もない。
それ以後の12年間、我々はミサ曲と可能性としてのその発展についての足跡を見失う。バッハはそれを彼の記憶の奥底に仕舞い込んで、復活と再評価がもたらされるような新たな状況の変化を待つことにしたのだろうか?だとすれば、このミサ曲を完成させるに必要な創造へのエネルギーは恐らく1745年のクリスマス時期に見ることができよう。第2次ポーランド戦争がまさに終戦を迎えたところで、1745年秋にはプロイセン軍がライプツィッヒを占領し、周辺地域を荒廃させた。バッハは人生で初めて戦争の怖さや辛さを直接体験したのだ。3年後も彼は「ああ、悲しくも、プロシア侵入を受けた時」とそれを記憶している。クリスマスの日にドレスデンの平和を祝して感謝祭の特別な礼拝が大学の教会で行われ、それはバッハが統括するふたつのエリート教会合唱団のメンバーに合同演奏させられる珍しい機会だった。ライプツィッヒの人々に5声によるラテン語という異色のカンタータ第191番「Gloria in excelsis Deo」を聴かせる機会だ。そこでバッハはドレスデンのGloriaから3曲を急ぎ取り合わせ、新しい三連祭壇画に見立ててまとめた。1724年のクリスマスで初めてお披露目されたクリスマスの6Sanctusもほぼ間違いなくこの礼拝で復活したはずだ。こうして最終的に全27曲のロ短調ミサ曲のうち、5曲が初めて演奏されたのではなかろうか。彼は自分のラテン語作品の質に改めてハッとしたのだろうか?恐らく彼は突然そこに運命を感じたのではないか。もっと大掛かりな構成の中にそれを仕込んでいく可能性が、規模や壮大さにおいて彼の受難曲に比する明確な信仰宣言を創造しようという強い思いを彼に抱かせたのだ。
それからしばらく後、当初は1733年版ドレスデン・ミサ曲だった作品から「カトリックの大ミサ曲」を完成させるという記念碑的決断に至ったのは、多分2年は経過して、クリスマスの平和祝賀の直後だろう。1790年のCPEバッハの財産目録に出てくるのがその題名である。具体的な使用目的に沿って既存の音楽と新たに作曲した楽曲をまとめることは彼のふたつの志に対する妥協では全くない。ひとつは一曲の作業の中にも彼自身と先達の音楽で大切に思うあらゆる様式を包含した博学的探求を行うこと、そしてもうひとつはその作業実践を完璧に達成することだ。
彼の準備は周到だ。まず基本的な構成、兵站、スタイルについての考察がある。出発点に1733年版ミサ曲を選んだことは、方向がある程度それで固まったということで、5声のヴォーカル・スコアとフルサイズのオーケストラ(Sanctusでは三位一体のトランペット、オーボエ、高音弦楽に対して声楽部の二重三位一体で補強)、独唱及び合唱楽章のモザイク、そして片やイタリア風協奏曲的楽章があり、他方古典的ポリフォニーによる明解な対比という諸様式の融合がある。この数年前にスティル・アンティーコ技法について集中的に研究した時期があったことがパレストリーナとペルゴレージに誇りある地位を与え、彼がCredoを多声的に作ろうとする関心を膨らませるための出発点となり、また道案内としての役割も果たした。とりわけジョヴァンニ・バティスタ・バッサーニの6曲のミサ作品がバッハの興味を惹いた。
彼はそのすべてを書き写し、バッサーニの第5のミサ曲のCredoには16小節の始唱(BWV1081)を新たに作曲して加えているが、その低音オスティナート旋律は明らかに彼自身のCredoの始まりを予見させるものだ。
次の段階は宗教曲、世俗曲を問わず、彼の昔の作品を見直すことだ。バッハの記憶回路が如何に正確無比に既存の楽章から完璧な選択に至らしめたかは驚くばかりだ。音楽素材に潜むあらゆる可能性が彼の頭の中ではあたかもスクリーンに瞬間表示され、あとは選択プロセスでそれらすべての可能性を検分しているかのようだ。例えばバッハ最晩年の声楽曲で8行詩のアリア作品をわずか8語に切り詰める困難が彼にのしかかるわけだが、彼は昇天祭オラトリオ(BWV11)からノスタルジックなアルトのアリア「ああ、どうか留まってください」を勝者に選びそれがAgnus Deiになるわけだが、どちらの曲も遡れば失われた原曲がある。そしてGratiasの曲をミサ曲全体のまとめとなるDona nobis pacemに再利用することについては、バッハは聖餐式を1526年版ルターの「ドイツ・ミサ」から取られた「Wir danken dir」の感謝の言葉で締めくくるというライプツィッヒの伝統に関連づけているのだ。
ミサの典礼形式はラテン語なので、バッハは時を経て風雨に揉まれた言語を使って普遍的テーマに集中することができた。当時の他のミサ曲作品でのアプローチと比較すると、バッハの作品は人間ドラマに力点を置いた斬新なものとなっている。彼のミサ曲には全体に語り的な細糸が通っていて、鍵となる瞬間にはそれが表出する。例えばGloria in excelsisやキリストの地上での生涯を扱うニケア信条で中核をなす3楽章で天使が羊飼いの前に現れる場面だ。この3楽章(CrucifixusEt resurrexitとそれに先立つEt incarnates)は最新且つ最前衛の音楽として遙か先を行くもので、注目すべきはそれが最後になって追加され、恐らく完成形の音楽楽章としてはバッハが最後に作曲したものであることだ。その後に続く静寂はバッハ音楽の究極の神秘性を内包するもので、奇跡的に取り戻した幼年期の力のような、予感と失われた無垢の両方の感覚を孕むものだ。
しかしこのミサ曲全体の中で私にとって最も痛切に人間的な瞬間というのは、ConfiteorからEt expectoに繋がる霊的な橋渡しのパッセージだ。このゆっくりと引き延ばされ、手探りで不安定な小節に(自筆譜には何度も訂正がある)我々はバッハ自身の苦闘の跡を見ることが出来る。確かにそれは調性、対位旋律、和音などに対してであるが、信仰そのものにまで関わっている。自らの罪の恐れや堕落状態から我々を引き上げる救済の望みなど、そこでは様々なことが賭に出される。これはバッハの防御がうまく働かないという稀有な状況で、我々は彼のもろさと迷いとを密かに知る。
バッハが我々に提示している人間性の強調は、我々が日常的に暗黒や知らないものに抱く恐怖感に対し防波堤となる。彼が我々に恐怖を感じさせることが出来るのは、彼もまたそれを感じたからだろうし、さらにそれを克服する術も理解していたのだ。このミサ曲の中でふたつの真逆な状況を同じ歌詞によって提起したのは唯一Et expecto resurrectionemで、ひとつは歪んで不確かで、もうひとつは生き生きと確信に満ちている。
バッハが作曲とその消化の過程で、考えを集中させ、最終段階に入るには、何か特別な行事を必要としていたことは想像に難くない。ひとつの提案はドレスデンの新しいホフ教会落成に予定される祝典は彼の曲でミサを行うという可能性だ。基礎のすみ石は1739年に置かれ、ベルナルド・ベロットによる1748年のドレスデン景観図から判断するとホフ教会は完成間近で、鐘楼はまだ足場に囲まれていた。この行事はバッハが待望していたものだろうか?そうであれば、ミサ曲の最終章が乱雑で必死な手書きとなっているのが、それを裏付ける熱く切迫した証拠だ。しかしもし彼の意向が献呈祝いの一部として演奏されるための献上を考えていたのなら、これは違う。視力の低下で17503-4月にイギリスの眼科医ジョン・テイラー卿による2度の水晶体手術を受けたことに加え、バッハは治療しないままの糖尿病に苦しんでいたとの指摘がある訳だから。彼はしばらくの間持ち直していたが、720日に脳卒中で倒れ、8日後に亡くなってしまう。
だからと言って、例えば1751年ドレスデンでミサ曲の全曲演奏に立ち会うあるいは指揮するまでバッハが長生きしていたらという可能性を除外はできない。その時彼はまだ曲の手直しを加え、改訂を続けていただろう。つまり作品を静止した対象と見るなら、一個の人間の思考と行動についての総括とその器は、喩えそれがバッハのふたつの受難曲に匹敵するような絶対的信仰の宣言だとしても、一方向のものでしかない。もうひとつの見方はそれが切れ目のない自己修正と自己定義の行程で、それは終点に至ることはなく、あるいは決して至ることが出来ないのではないだろうか。音楽に込められた意味の本質的可動性が束縛から解かれ、救われるのは、演奏を通してのみだ。バッハは時間経過の中で音楽を組み立て、そこに自分の早い時期の音楽的着想を吸収させ、彼の「完璧という慣例」とでも呼ぶような表現によるまさに筆舌にし難い形の結論を出した。彼の口ぶりなら、「もうこの惑星からは降りる。自分の役目は終わりだ。君たちに純粋で美しいアイディアをひとつ残しておく。そのアイディアの表現法は私から世界への贈り物だ。私の先達たちもその一部に入っている。」と言ったことだろう。言い換えれば、Nunc dimittis(今こそ我を去らせ給え)のようなもの。我々は彼の末裔であり、彼の洞察力の受益者なのだ。我々がその曲を演奏する度に今の最新の地点での作品の持続的展開を印していくことになる。
さて30年の空白を経て、バッハの大ミサ曲を再録音するという機会に、私はバッハのあらゆる宗教曲の中でこの作品は演奏者への要求が技術的にも音楽的にも、さらに精神的にも最も高いものとの認識を一層強くしている。多くの音楽家たちと塹壕に(喩えだが)篭もっていたので、そこには2000年のカンタータ全曲巡礼に丸々一年私と共に没頭して参加してくれた者もいるし、それ以来毎年の再訪問もあって、彼らが如何に驚くべき才能を備えているか、私は判っている。そして彼らが歌手あるいは演奏者としてお互いに対し、またまとまって固く編み込まれたアンサンブルとしての演奏法に対し、図抜けた反応力を備えていることがバッハ音楽の解釈に磨きをかけてきた。教会カンタータの探訪を終えてミサ曲に戻ると、季節が特定され、週毎の説教に組み込まれた音楽は全体像に変化をもたらした。カンタータでは聖書が信徒の一人ひとりに関連するような寓話や物語を提供することでバッハに(受難曲だけでなく)音楽ドラマの材料を与えていたのだと常に感じていたのに対し、このミサ曲では我々は彼が新たな音楽の分野に挑むのを追走する。一方では聖書の教義を照らし詳説するために、他方では死を超えて生きていくことを最大に楽しく祝うことで人としての信仰の迷いや諍いを明らかにして克服するために。
バッハは社会の調和崩壊が進み、啓蒙主義者によって宗教の古い仕組みが壊されて行く時期に作曲をしていて、彼の見識の広さから宇宙を調和のある全体という概念で捉え、我々に提示している。彼のミサ曲の多様な由来を辿り、時代を遡る楽曲を再利用している兆候を見れば見るほど、そこにはバッハ自身の音楽が影響の束の中で薄まって、全体ではなくパーツの寄せ集めと化す危険性があるのだが、素材を加工してそれを新しい形に溶着させるところがまさに彼の真骨頂で、自らの意志と勇気は自分流で打ち鳴らし、そして様式を超えている、それがロ短調ミサ曲で特に感激を覚えるところだ。それを認識しないでは、その背後の原動力を見落とす恐れがある。バッハの決意は単に信仰を仕草で伝え、自ら発想した音楽を通して教義を解きほぐすためだけではなく、音楽の持つ可能性の幅そのものを広げ、そうした探求によって彼の生きる世界と何であれその先にあるものの意味を理解するためでもあるのだ。
©2015 John Eliot Gardiner
著書「Music in the Castle of Heaven13章より抜粋。



Monday, November 23, 2015

京都の秋 - Autumn in Kyoto

●京都植物園 - Kyoto Botanical Garden
11月の3連休前に紅葉を求めて京都入りした。19日はカミさんの希望で植物園散歩。タイミングはもう少し後が最盛期かなと思ったが、写真では見た目以上に色が出ているようだ。植物園自体はとても良く構成されていて、春にはさぞ見事だろうと感じた。
Just before 3-day holidays in November, we visited Kyoto excepting autumn colors. We went to the botanical garden on 19th as my wife wanted. The peak of autumn leaves seemed coming in a few days or a week later, but the photos contained more than sufficient colors. The garden itself was very well organized that must be wonderful in the spring time.








●詩仙堂 - Shisendo
最終日21日の朝はまず詩仙堂へ。平日でもこの混雑ぶりだから、翌日からの連休は想像を絶する押し合いへし合いに違いない。ここは充分に秋色が楽しめる状態で、小さな庭園を楽しく見ることができて、幸せな気分になれる。対照的に曼殊院は遠出する価値が見当たらない。
In the morning of our last day in Kyoto, the 21st, we visited Shisendo that is known for its garden. It was pretty much filled with visitors despite the weekday morning including number of foreigners, and the following weekend holidays would be an unavoidable mess! This small but beautiful garden had full of colors, and we had a happy feeling being there. In contrast, we did not find any point of visiting nearby (but long walk) Manshuin unfortunately.







●高雄三山 - Three Temples in Takao
20日昼から急ぎ足のハイキングがてら、今が見頃と言われた高雄を目指す。京都駅から臨時バスが出ていて、料金も往復800円と至って効率的に事は運んだ。しかし期待していた紅葉に染まる山という期待は神護寺・西明寺・高山寺のいずれでも裏切られた。タイミングが悪かったのか、あるいは今年の紅葉は不作だったのか?
On 20th, I had a quick hiking to Takao in the afternoon because I was told the colors there were in peak. The bus ride of about 50 minutes was quite efficient as there was timely direct service from Kyoto station (for 800 Yen fare round trip), but in none of Jingoji, Saimyoji and Kozanji temples displayed much autumn colors. I had no idea if it was because of wrong timing or the season itself was not great this particular year.







●おまけ:琳派展 - Extra Bonus was Rinpa Exhibition
20日朝は京都博物館で琳派展の鑑賞。実はこれが今回の京都訪問のもうひとつの目的だった。宗達、光琳、抱一それぞれの画風について感じるところなどあり、良い展覧会だった。但し光琳の風神雷神などいくつかの作品は閉幕近いこの時期すでに撤収後だったのが残念。
20th morning was for Rinpa Exhibition in Kyoto Museum, and it was actually one of two major purposes of our visit. It was definitely worthwhile as I could personally digest the styles of Sotatsu Tawaraya, Kohrin Ogata and Hoitsu Sakai. On the other hand, some of great paintings including Kohrin's "Wind and Thunder Gods" had been withdrew as it was toward the exhibition ending.



Thursday, November 5, 2015

吾妻渓谷 - The Last Views of Agatsuma Valley


数年後には八ッ場ダムの底に沈むであろう吾妻渓谷の紅葉を今のうち見納めに訪ねておこうとまたとないくらいの晴天の日に出かけた。吾妻線の川原湯温泉駅に降りてみるとすべてが様変わりして工事の真っ直中、ここから渓谷にアクセスはできないとのことで、一駅前の岩島に引き返す。無人駅を出るとR145を右にずっと進み、途中巨大な新しい鉄道橋をくぐる。歩くこと約30分でようやく道の駅に着いた。

Iwashima Station

"Michino Eki" is the access point to the Valley

僕は取り敢えず道の駅がある渓谷の南側を歩いてみることにした。20分くらいが経過して、十二沢橋を越えると遊歩道が現れた。ここから実際にハイキング気分で歩けるのは鹿飛橋まで谷を降りて反対側に回るだけのわずかなエリアで、10数年昔に吾妻渓谷を時間をかけてたっぷり歩いた記憶と比べると何とも寂しい限りだ。紅葉も見頃の最盛期と天気情報では伝えていたが、息をのむような風景はここにはない。草津方面の山は概して茶色が主体の紅葉なのだ。それでも赤く染まった木を狙っては写真を撮っておく。こうして秋の色を眺めるのはやはり楽しい。




Entrance guidepost for walkers

Bridge down on the Valley


Agatsuma Valley will be few years before going under water of Yamba dam which is being built now, and I thought this might be the last chance for me to see the autumn colors of the Valley, and I took the train on an exceptional sunny day. I got off at Kawarayu Onsen Station, but everything in this area had been completely changed and the Valley looked messy with construction machines. I learned that there was no access way to the Valley there, and I had to go a station back to Iwashima. Out of Iwashima Station, you take R145 to the right and you go under the newly built, huge railway bridge and beyond until you reach "Michino Eki" in about 30 minutes.

You can go both ways but I took the southern side of the Valley, and it took about 20 minutes or so for me to see the guide post of hiking way after I passed Junisawa Bridge. From this point, the whole area for the walk was only going down the Valley to Shikatobi Bridge and go up to the other side, which is rather short in contrast to more than a decade ago when I walked the whole promenade along the Valley. (And it will be gone for ever!) The season was right but nothing was breathtaking here. The mountains in this neighborhood around Kusatsu are generally brownish rather than red or yellow, so when I see red trees among them occasionally, I took pictures focusing on them. Such autumn colors are still pleasing!

Monday, October 26, 2015

日塩もみじラインへ輪行 - Shiobara & Nikko Route Run

逗子を拠点にすると、長野原草津口、日光、那須塩原などはいずれも200kmを越すので、老人のためのジパング倶楽部(JR東日本)で切符が3割引です。例えばその区間の普通列車グリーン料金もホリデーなら780円のところ550円で済むわけです。
輪行というのは思いつきでどこにでも行くわけにはなかなか行かないもので、僕は自分なりに一種のシミュレーションをしてみますが、上記のようなコスト面も当然その検討要素になります。

さて、紅葉を求めてどこかを走ろうとあれこれ考えていたのですが、猪苗代あたりまで見頃が降りてきているとの友人談と日塩ラインを自転車で走れるとのネット情報から、塩原温泉に狙いを定めました。決行は先週末の土曜日、翌日は一変して気温が下がり強風となったので、これはラッキーなタイミングでした。最初は往復とも電車のつもりでしたが、行楽客満載かも知れない那須塩原からの路線バスに輪行袋を持ち込めるかという疑問符があったことと、スタート時間を遅くできることから、新宿南口発のJR高速バスを使うことにしました。まずは7時37分逗子駅発の湘南新宿ラインに乗ります。始発なので混まない最後部に近い2両目に席を確保して、ドア横に自転車を置きます。平日だと新宿までに混雑してちょっとまずいわけですが、休みの日なら楽勝ですね。高速バスターミナルは代々木から数分の歩きです。

Nobody in early Saturday morning train

いよいよ9時20分発のバスに乗り込みますが、そこで乗客の整理をしているスタッフに「自転車は有料手荷物の手続きをしていますか?」と言われ、そんなの聞いたことないなあと渋々窓口に引き返しました。すると窓口では「荷物が床下のスペースに入る余裕があって、ドライバーの許可があればそれで良い」との返答です。と言うことで今度はドライバーにその旨を話して輪行袋入れさせてもらいますと申し出ると、「自転車はスキーなんかと同じで本当は持ち込めないんですよ。」と来た。これまで何度かバス輪行していますが、こうしたやり取りは初めてです。でも結局ドライバーは「持って来ちゃっているし、往きは乗せられても帰りは混んで難しいと思いますよ。」と黙認してくれる態度になります。こちらも帰路は電車予定なのでそれはOKと、晴れて席に着くことが出来ました。チケットの但し書きをよく読んでみると、確かに長さ1m以上の荷物はダメ等々と書かれていたので、運転手のイチャモンというわけではなくて、これまでフリーパスだったのがラッキーということなんですね!幸いその日の乗車率は50%くらいでピギーなどの荷物を預ける人は限られていました。

Troubled to bring in my bike at Shinjuku Highway Bus Terminal 

高速道は加須の手前でしばらく渋滞に捕まりましたが、その後流れは回復、アグリパル塩原を過ぎて目的地のもみじ谷大吊橋に着いたのは20分くらい遅れの12時45分。この遅れが実は後で致命的な影響をもたらします。そそくさと自転車を組んで、まずは大吊橋を見に行きましたが、入場料を取ってまで観るほどのものではない気がします。周囲の木々もただくすんで見える寂しさで、早々に切り上げて先を急ぐことにしました。

View from Momijidani Great Bridge

塩原温泉へは緑の中と川沿いを走るなかなか快適な道で、僕は途中対岸側に回らなかったので、福渡温泉の町並みを見ることなく日塩ラインの登り口に来てしまいました。ここからは標高差約700mほどを獲得しなければならないヒルクライムです。ハンターマウンテンへの登りというのは、標高は全然違いますが規模的には草津白根山の獲得標高差800mに準ずるくらいだろうと想定していました。ただ奥塩原の手前まではひたすら登りで足を休める間がないなあと感じました。ハンターマウンテンのところで「この先340m8%」という表示がありましたが、登りの後半は至って緩やかでした。途中で大根など野菜を売る産直市場みたいなところがあり、エーデルワイスという小屋を過ぎれば最高地点はすぐです。貧脚の僕は登坂に1時間半費やしていますから、草津白根と同程度の時間です。

View from Nanatsuiwa Suspension Bridge

肝腎の紅葉ですが、下界ではまだかなと思いつつ、高いところでは道に落ち葉が積もっていて時期を過ぎた感もあり、かと言って赤くあるいは黄色く映える木々はあまり見当たらず、ちょっと絶景ポイントが見つからないまま竜王峡まで降りてしまった感じがします。峠の茶屋白滝ドライブインというところで車を降りて写真を撮っている人たちがいました。ここには真っ赤な木がいくつかあり、対面する山の彩りも一番の見物でした。日塩もみじラインの延々とヘアピンカーブが続くダウンヒルは快適だと思います。






竜王峡に着いたのは16時10分で、日も薄くなって予定の電車時刻に1時間しかないので、そのまま走り抜けて先を急ぎました。しかしここから今市までの距離は結構長く、ややへばり気味で駅に到着したのは発車9分前。到底自転車を畳むことは出来ません。30分後の電車で帰ることになりました。宇都宮からは湘南新宿ラインの始発で終点までグリーン車に陣取ります。輪行袋を車両最後尾のスペースに押し込み準備万端。但し隣席に客が来ると、リクライニングが少しぶつかることになります。このタイミングではそこまで混まない想定です。かくして日帰りツアーは無事完了でした。今日になってその疲労が出て来ましたが・・・。


The route map, first 4km missing in the log





Monday, October 12, 2015

Midori's Bach - 五嶋みどりのバッハ

8月初めに予約して月末に発売予定となっていた無伴奏ソナタとパルティータのアルバムが3度の延期を経て108日にようやく手元に届いた。早速ディスク2枚を一気に通して聴いたが、演奏は素晴らしいと感じた。颯爽としたスピード感で、抑制的と言えるくらい表現に余計なところがなく、緊張感と美しさがバランスする演奏だ。いずれの曲も完成度は高いと思う。自らこの録音をBach Projectと名付けていたくらいだから、満を持して取り組んだに違いない。

アルバムの小冊子には五嶋みどりがどのようにバッハと向き合ってきたかを本人が綴った約4頁の英語の(+独仏の)文章がArtist’s noteと題されて添えられている。この文章を読んで行くと彼女がアーティストとして成熟の域に達していることが、その語り手としてのスタンスから自然に理解できる。とても良いライナー・ノーツだ。


母が練習していたバッハの曲を数日後に口ずさんでいたという2歳の頃の逸話、7歳で初めてバッハのソナタのレッスンを開始した時の驚きと困惑、他のどの作曲家よりもバッハの曲には学ぶところが無尽蔵で、毎回発見があり、独奏者デビュー30周年に達した2012-13年はこの無伴奏全6曲の録音に向き合う「良い頃合い」と判断したとのことだ。彼女はルネサンス期のearly musicからfreshness and freedomのスタイルに触れたことが大きいとも語っている。


I pre-ordered this album in the beginning of August for the scheduled release in the end of the month, and then received the notices of postponement for three times. Finally, the delivery was made on 8 October. I immediately listened to all 6 sonatas and partitas in a row to find the performance excellent. Each piece of music is very high in quality with solid swiftness and beauty in balance. Her expression is, if I may interpret it,  restrainedly clean without any excessive maneuvers. She referred this recording as her "Bach Project" that implies how precisely she prepared for it.

In the booklet is a 4-page writing by herself, titled "Artist's note", explaining how she dealt with Bach throughout her career, and I can see that Midori is now a truly mature artist by the stance of writing. I like this liner note very much.